カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

財布の分厚い人達

2018-06-30 | 

 回らない寿司屋で、まったく知らない店にふらっと入るような度胸は無い。寿司屋というのは、いくら田舎であっても恐ろしいところである。もちろん田舎や都会とも関係なく、それでいて恐ろしくない店も無いではないが、そういう運に身をまかせられるだけの財布の中身が無いと、やはり選択としての寿司屋は恐ろしげである。ちゃんと値段が書いてあると、ずいぶんホッとする。もう入ったからには網にかかっている。そういう心持が既にあって、おちおち落ち着いてはいられないのである。
 寿司が高級になるのは、そういうものをめざした人たちがいたからのようだ。また、それを喜ぶ人もいた。そういう人達の思惑が絡んで、寿司の値段はどんどん上がる。高級店になるとメニューなどないのが当たり前で、基本的におまかせで握ってもらうより無い。そういう店は数万円からというスタートで、何か飲むとさらに取られる。財布の分厚い人で無いと、どうにもならない。ちょっとつまんで十数万という事にもなりそうで、そういう金の使い方が面白いという人のためにある時間と空間、という事になるのだろう。
 確かに高い金をとる店の技術というものは、それなりに根拠はある。材料を厳選していることはもちろん、それだけの値段で店を張って行けるだけの、そうとうの自信の元になるものが必要だろう。寿司を握る手さばきや包丁使い、その仕込の手の込みようは妥協が許されない。そういうものが分かる人が客でもごくたまにいるから、手を抜けばやはり見抜かれることだろう。素材の魚の仕入れに関しても一定水準の維持費がかかるから、ギャンブルをやっているようなものかもしれない。ちょっとしたミスを犯すと、ガラガラとその世界で生きられなくなってしまうのかもしれない。そういう世界で生きて行けるだけの神経を持つだけでも、そうとうに厳しいものがあるんじゃなかろうか。
 とはいえ、そういう店でもくつろいで酒を飲むような人がいるらしい。そういう自分にも酔えるという事もあるのではないか。一流の店に通えるという人間は、そういう自分の価値を確かめるためにも、高級な寿司を欲しているのであろう。
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