カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

モンゴルとベトナム

2010-01-07 | culture
 そういえば先の「八日目」という映画で、ダウン症の人にモンゴルとののしる場面がある。言われた方も言い返してお前がモンゴルだ、というやり取りの言い合いになる。そうして最後にはやっぱりダウン症の方が、モンゴルは俺だと開き直って笑いになるのだった。
 僕はアジア人だからダウン症の人がそくモンゴル人には見えないわけだが、やはりフランス人あたりの人にとっては、モンゴルというのが適当なんだろう。
 アメリカ人の書く漫画に出てくる日本人は目が細くてキツネ顔なんだけど、これは日本人に見えるということなんだろう。しかし最近の右翼系の漫画に出てくる朝鮮系の人が、まさにこの日本人顔なのであって、日本人にはキツネ顔がそのように見えるということなんだろうか。記号としてわかると言えば確かにわかるんだけど、実際に韓国の人を見るとそうはやはり感じない。僕にはちょっと不思議である。まあ、悪意は分からないではないが…。
 ずいぶん前にテレビで外国人が日本人に言われて嫌な言葉に「ガイジン」というのがあるという話があって、その理由としてその外国人が、僕はドイツ人なのにアメリカ人と同じ外人はおかしいのではないか、と言っているのに違和感があった。なんとなく慣れてくるとドイツ系なのかな、とは最近は思うものの、ドイツ人とアメリカ人は基本的に区別がつかないし、おんなじ外人で何にも悪くないのではないか。外人を見てガイジンというのは別におかしいことではない様に思うのだが…。日本社会からの疎外感を感じるという意味もあるんだろうが、それは別に日本社会特有な現象なのではあるまい。
 ちなみに僕ら東洋系はやはり西洋人とは顔つきが違うのは当然だ。そんなことは当たり前だから、僕は外国人からチャイニーズといわれても全然平気だ。違う、日本人だ。そういうやり取りはあいさつみたいなものだろう。だが、そう言われるのが嫌だという同胞がいて、その方が違和感を持ったものだ。こういうのは日本人という何とも嫌な感覚なのかもしれない。
 しかしながら僕の場合、だいたいベトナムといわれることの方が多い。どちらかというと南方系の顔なのだろう。そういう訳で、僕は何となくベトナム人には親近感を持っております。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

普通に犯罪行為で片付ける

2010-01-07 | 時事
シー・シェパード抗議船、衝突大破

 不毛な戦いは続いているわけだが、捕鯨問題に対する日本の立場って、やはりかなり理解されないものじゃないかという気もする。日本の食文化になんで他国が干渉するんだというまっとうな話は、干渉している国には聞き入れられるとは考えにくい。そうして結果的にこのような野蛮なことでも甘んじて受けなればならないという訳だ。特にオーストラリアの人たちというのは知能が低いということは言えるのだろうけど、残念ながら彼らも人間の一種である。あんまり差別するわけにもいかないようだ。
 しかしながら調査捕鯨というものを公海において実施するということに対して、比較的地理的に近いということで感情的になっている可能性も高いと思われる。いろいろ理屈はこねているけど、つまるところ感情的に終始しておさまらない。
 また捕鯨問題については日本の側も妙に感情的になっているとも感じられる。まあ、一方的に暴力をふるわれているわけで頭に来ているということなんだろうけど、あんまりこのような感情に左右されることは頭のいい対応とは思えない。地球環境という視点がさらに激化するようなら、次はマグロがターゲットになる(すでにその動きは出ているが)というようなエスカレート化が懸念される。彼らはすでに宗教的な信念でやっているわけで、現状すら理解できる能力は無い。結局今のような調査捕鯨という方便を使うより、やっぱり道はないようである。
 クジラの食文化が廃れないのは、基本的に商業として成り立っているためだと思う。ノルウェーだって同じような理由だろう。実に当たり前だがクジラよりも人間の命の問題なのだ。シビアに物事を見ると、これで生計をたてるなり生きている人が捕鯨を必要としている以上、これからも日本が捕鯨をやめる訳が無いのである。
 そういう訳で、実際には彼らにとっても実は本来どうでもいいことだからこれだけ一所懸命騒ぐことができるということに気付く必要があると思う。こちらは必要なんだし、あちらはどうでもいいんだから、まともにやり合うだけ時間の無駄である。本来的な真剣さが違うのだから、結局僕らとて外野にすぎない。犠牲になるのは振り回される人たち、実際にクジラで生きている人間なのであろう。
 物騒な遊びに付き合わされるという不条理はあるにせよ、クジラ問題は棚上げせざるを得ない小さいことに位置づけする方がいいようである。彼らも話題になるから金を集められるわけで、金が尽きたら行動もできなくなるに違いないのである。それに別段捕鯨反対国が、世界的な大勢であるわけでも無いのである。ほとんどは単なる傍観者。つまりその時の感情に左右される大衆にすぎない。そうであるなら一部の小さい声が聞き入れられるようなことになることが、実に危ないということを知った方がいいと思う。大切なのは日本が孤立しないこと。冷静になればおかしいのは彼らの行動なのだから。
 これはあくまで捕鯨の是非を問うているのではない。公海上で危険行為をどうするのか、という一点の問題なのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする