これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

みんな、おかげさまで生きてます

2015-01-21 22:15:40 | 心をラクに
「おかげさま」って、とってもいい響きですよね。
もう、その語感だけで、なんだか心洗われるような清らかな気持ちになります。

以前、私たちは自分だけで生きているわけではないと書きましたが、この言葉にはそのエッセンスが詰まっているような気がします。

親や家族、友人や知人、地域や社会に包まれて私たちは生活していますが、そのアタリマエの毎日も、そうした多くの存在のおかげで成り立って
います。
もちろんそんなところで、俺のおかげだゾと主張する人なんて居ません。
まさに、蔭ながらです。

そして、さらにはそれらをも包む、大自然、天地宇宙の存在があるわけです。

たとえば、親が子供に向ける心は、子供が外へ遊びに出かけて目の前から居なくなっても途切れることはありません。
相手が見えようが見えまいが、変わることがありません。
そして、その心は、目には見えなくとも確実に存在しています。

同じように、あらゆる人間は、意識せずに心を外へ向けています。
地域や社会というものも、そのエネルギーに満ちています。

そして天地宇宙も、まさに親が子に向けるように、私たちに心を向けています。
天地に満ち満ちている氣の中に、私たちは包まれています。

私たちが、自分で思いついたり、自分で閃(ひらめ)いているかのように思っていることも、実は天地のおかげかもしれません。

世の中には、普通の人に聞こえないものが聞こえたり、見えないものが見えたりする人もいますが、それが特別なことかというとそうでは
ありません。
それはたまたま分かりやすい形で見えるだけで、この世に存在するすべての人間はそれと同じことをごく自然にやっています。

天地と分け隔てなく溶け合っている時は、天の心も自分の心も一つになり、あたかも自分で思いついたような形になってあらわれます。
自我が薄まっているから、受け手も送り手もなくなるわけです。
まさに、時差ゼロ秒です(笑)

自分で思いついたことですから、自分の意思でもってそれを行動に移します。
これは、誰かに言われて動くのとは180度違います。
「自ら」という内発的な行動だからいいわけです。

神様が降ろしたご神託だから凄いなどというのは短絡的な発想と言わざるを得ません。
比較と優劣の観念でもってありがたがっている時点で、それは本物には成りません。
自分で思いついたものこそ、ありがたいのです。

さて、ではこれを人間関係に当てはめるとどうなるでしょうか。

誰か他の人に対して、こうやるとイイよとアドバイスしたり、手を貸したり、あるいは後押しをしたりと、そういう人はいわゆるイイ人と
呼ばれます。
自分も、そうありたいものです。
簡単にできそうで、なかなかできないのが人間というものです。

でも、その先へとさらに進めてみますと、そこには、
『相手に気づかれないように蔭ながら手助けする』
『相手が自分で思いついたかのように蔭ながら導く』

という世界があります。

昔からそれは「陰徳」と呼ばれ、尊ばれてきました。

外部の誰かの力を借りたと認識してしまうと、その人の心は、自らの課題や業を純粋にクリアできなくなります。
自分の力でやっていると信じて、自らの足で進むところに意味があるわけです。

子供は、両親が見守る眼差しには気づかずに、目の前のことに100%心を向けて、自分の世界を自分の足で歩いていくことで大きく
成長していきます。

陰徳というのは、神性の発露のために自らの欲得を捨てて無心で行なう純粋性・透明性の大切さを示すものですが、一方では、このような側面も
あったのではないかと、私は思います。

そして、その陰徳の最たるものが天地の心であるわけです。

今も私たちは、天地宇宙という大いなる存在に見守られて、生かされています。

人はみな、自分の足で歩くために、生まれてきました。
ですから、今の一歩に100%心を向けて進んでいきます。
しかし、ともすれば、自分の力だけで進んでいると勘違いしがちです。

だから、いつも思いだして感謝することがとても大切なことだと思います。

私たちは、生まれてから今この時も、一瞬も絶やすことなく、溢れるほどの『お蔭さま』によって生かされているのです。




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