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石碑北0154  鷹ケ峰 江戸時代の薬園跡  

2018年03月11日 15時49分43秒 | 石碑

 

旧 山城国愛宕郡鷹ケ峰村

徳川時代 公儀 鷹ケ峰薬園跡

2010年11月 特定非営利活動法人 京都歴史地理同考会建立

 寄付者 故 山田 真

鷹ケ峰 薬園跡のいまむかし

徳川時代 公儀 鷹ケ峰 薬園跡

このあたり一帯は、京都の北郊で、もと山城国愛宕郡鷹ケ峰村といいます。江戸時代に徳川公儀(幕府)が設置した薬園跡です。薬園とは薬草を栽培する場所で、医学発展に不可欠といえます。徳川の武家政府は、すでに京都や伏見から江戸に移っていましたが、京都は禁裏(天皇)や朝廷のあるミヤコとして、変わらず日本の最重要都市でした。学問や芸術の中心地でもありました。

徳川3代将軍家光の時代の寛永14年(1637)、肥後熊本の大名だった細川忠興が、病気がちな薩摩の大名島津家久に「京都に来られませんか。上方(京都・大坂など)での養生をおススメします。上方は医者も多くいますからきっと良くなりますよ」と手紙で述べているのも理解できます。

寛永17年(1640)、京都北郊の当地鷹ケ峰に薬園は設置されました。その規模は60間(約110m)四方で徳川家に仕え、禁裏の典医でもあった藤林道寿一族が、明治維新までこれを管轄しました。

江戸後期の弘化4年(1847)の記録によれば、栽培された薬種のうち95種が禁裏に献上され、73種が江戸に運ばれています。詳しくは上田三平氏の労作「日本薬園史の研究」(1930年刊行)をご覧ください。

明治維新後、藤林道寿は解任され、薬園は維持されることなく、茶畑などの農地に転用されました。跡地には石碑が建てられるなどの顕彰されることもありませんでした。戦前、市内に約80基の石碑を建てたことでことで知られる京都市教育会は、当該地への建碑計画を持っていたようですが、実現しませんでした。

2007年(平成19)に改訂された「京都市遺跡地図台帳」(第8版)にも、周知の遺跡として認定されていません。江戸に営まれた小石川薬園跡は、いまも東京大学理学部が管理し使用されております。大名や民間が営んだ楽園には、旧島原藩薬園跡(長崎県)、森野旧薬園(奈良県)、佐多旧薬園(鹿児島県)のように、現在国史跡に指定されたものもあります。当地とは大違いです。

鷹ケ峰薬園跡にはいまも名残があります。わずかながら農地が点在し、土地の区画(地割)も生きているほか、旧藤林邸の井戸も現存します。そもそも地名が「藤林町」で、往時をしのばせます。現在地はおおよそ同邸の表門跡にあたります。

江戸時代の京都が、医学研究の最先端地のひとつであったことを永く伝えるため、ここ鷹ケ峰に建碑し、顕彰いたします。

2011年6月 歴史地理史学者 中村武生

 

 

薬園跡 南側から撮影。中央にのびる森は、ミヤコの城壁・環濠の御土居堀。

藤林道寿邸跡

西側から撮影。井戸は現存する。左手にのびる森は御土居堀

 

現在の地図上に落とした薬園跡。

現在地はおよそ藤林邸表門跡にあたります。近くには井戸が残っています。

江戸時代後期の鷹ケ峰あたり

天保2年7月(1831)、竹原好兵衛発行 改正 京町絵図細見大成。

 石碑 前回の記事 ➡ 石碑上0153 松永伍作碑  明治時代の蚕業教育家

 

五七五

踏切は私が行くときっと鳴る /亀谷

 

京ことば マイド いつも。いつもありがとうの意味でもいう。

   「マイドオーキニ」を省略して。

 

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