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史跡上025  御土居  北野天満宮

2018年03月06日 17時16分48秒 | 史跡・旧跡

 

史蹟 豊太閤築造 御土居 

天正17年(昭和50年より386年前)豊太閤皇居を造営し、ついで京洛の区域を定めその境界、並、水防のため天正19年(昭和50年より384年前)諸侯に命じて京都の四囲に築造した大土堤の一部なり、 史蹟指定昭和40年10月27日

史跡 御土居

御土居は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉公が、長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街地を守る堤防として、天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。台形の土塁と堀(堀の一部は川、池、沼を利用)からなり、その延長は22.5kmに及び、東は鴨川、北は鷹峯、西は紙屋川、南は九条あたりに沿って築かれました。土塁の内側を洛中、外側を洛外と呼び、要所にきいわゆる七口を設け、洛外との出入口としました。鞍馬口、丹波口などの地名はその名残です。京都の沿革を知るうえに、都市の発達をたどる重要な遺跡として「史跡」に指定されました。

豊臣秀吉公の都市遺構

史跡 御土居

御土居とは天正19年(1591)豊臣秀吉公が、長い戦乱で荒れ果てた京の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街を守る堤防として市内四囲約23キロにわたり築いた土塁のことです。御土居は当宮を含め9カ所、史跡として指定されていますが、特に北野天満宮境内の御土居は平安京の北西(乾)にあたる最も重要な箇所とされ、「切石組暗渠」が残存するなど、その歴史的重要性が指摘されています。

千有余年の昔、平安京の大内裏が現在の千本丸太町にあった頃、北野天満宮東側には西大宮川(松葉川)が流れており、その水は大宮御所の御用水として使用されていたことから、北野は特に清浄の地とされました。

天正19年、秀吉公は御土居を築くにあたり、この清浄なる境内に水が溜らないように、洛中で唯一この地だけに御土居を貫通する約20mもの暗渠(悪水抜き)を造り、境内神域を守りました。

昭和40年に「史跡」の指定を受け、悠久千年の都・京都の都市計画の重要な遺構として受け継がれてきた御土居は、四季を通じて魅せる紙屋川の美しい景観と共に境内西側に広がっています。

 

9か所の御土居

               都の出入り口  洛中・洛外の出入り口の石標

                水火天満宮  石柱と2つの石  6月9日NEW

1       北野天満宮    ➡  ポスター0063  北野天満宮 御土居の紅葉

                       御土居堀の深さを感じさせる場所

2       平野 鳥居前町  ➡ 平野鳥居前町の御土居 

3       紫野 西土居町  ➡  西土居町の御土居

                   金閣寺橋  紙屋川の深さと御土居堀  

4       鷹峯 旧土居町  ➡

5       鷹峯 旧土居町  ➡

6       大宮 土居町   ➡

7       紫竹 上長目町 ➡ 

8       蘆山寺 北之辺町  ➡ 廬山寺 内の 史蹟 

9       西ノ京 原町   ➡ 中京区西ノ京原町 (市五郎稲荷神社)の 御土居

          御土居掘  洛中・洛外の境界 道が盛り上がっています 

                 高山寺  日野富子が祈願成就・男児出産

史跡 前回の記事 ➡ 史跡中024  古高俊太郎 旧邸跡 池田屋事変につながる

 

五七五

手紙には健康ですと書いておく /中川

 

京都の俗諺(ぞくげん)

鰻の寝床(うなぎのねどこ) 

京都の町屋の異称。間口が狭く、奥行きが長い家のこと

 

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