アートプラス京めぐり

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花左046 植物園 ダイモンジソウ

2020年12月11日 17時05分14秒 | 

2019年11月2日 撮影

 

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まち歩き下1432 京の通り・富小路通 No88  寺院下0741  本覚寺 

2020年12月11日 06時39分41秒 | まち歩き

 

源実朝夫人本覚尼ゆかりの浄土宗の寺。また浮世草子を出版し、上方文化を築いた八文字屋家の菩提寺でもある。自笑は本名安藤氏、名は八左衛門(二代目)といい、中京区坂井町(麩屋町通六角下ル)に店を構え、主に浄瑠璃本の板元(図書出版業)であったが、元禄12年(1699)に『役者口三味線』を、元禄14年に『傾城色三味線』を出版した。当時のベストセラーになった。

実際に執筆したのは京極誓願寺前の大仏餅屋の道楽息子、江島其蹟であった。はじめ自笑から執筆の話をもちかけられたとき、表面は自笑筆とし、自分の名は隠すことで引き受けた。

挿画は浮世絵師の西川祐信が担当した。企画はあたり多くの浮世草子が出版された。世に「八文字屋本」といわれた。

自笑は大金を得たが、隠れ作家の其蹟には僅かな謝礼金を出しただけであった。たびたび自笑に利益の配分を要求したが、自笑は一向に応じない。そこで其蹟は、自分の息子に本屋を開かせ、『世間子息気質』など一連の気質物を書きまくり、世に刊行した。また八文字屋本は自分が書いたことを暴露したため二人は完全に対立するに至った。しかし、素人でうまくいかず、資金的にも苦しんだ。

自笑も自分が書くほどの腕がなく、結局仲間割れは損だと気付き両者連名で作品を出版することになり、7年間の争いに終止符をうった。

其蹟は享保20年(1735)70歳で亡くなり、自笑は延享2年(1745)11月11日、85歳で亡くなった。八文字屋は4代目、5代目も自笑と号し、京都の本屋の老舗として続いた。

 

本堂には本尊阿弥陀像を安置し、傍らに塩竈神社の祭神源融像および本覚尼の像を安置している。

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