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右書き看板69  餅 柚    鶴屋吉信  

2016年01月26日 08時41分11秒 | 右書き看板

 

享和3年   1803年    初代鶴屋伊兵衛、上京区にて創業。

嘉永7年   1854年    京都所司代認可の上菓子屋仲間に所属。

明治初年     三代鶴屋伊兵衛、京名物「柚餅」を商う。    HPより

 

 

 

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和泉式部 誠心院 真言宗泉涌寺派

2016年01月26日 08時36分10秒 | 寺院

 

 

 

誠心院

 

華嶽山東北寺誠心院と号する真言宗泉涌寺派の寺で、才色兼備で知られる平安時代の代表的な女流歌人、和泉式部を初代住職とする。寺伝によれば、関白藤原道長が、娘の上東門院(藤原彰子)に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内の一庵を与えたのが当寺の起こりとされる。当初、御所の東側(荒神口の辺り)にあったが、鴨川の氾濫などにより一条小川(上京区)に移築再興され、更に天正年間(1573~1591)、豊臣秀吉の命令でこの地に移された。

 

本堂は小御堂と呼ばれ、堂内には、本尊阿弥陀如来像をはじめ、和泉式部、藤原道長のそれぞれの像を安置している。境内には、和泉式部の墓と伝える宝篋印塔及び和泉式部の歌碑が建てられている。「霞立つ春きにけりと・・・」の碑文は、江戸期の誠心院住職だった自性和尚の筆といわれています。 また、傍らの梅の木は、式部が生前愛した「軒端の梅」にちなんで、後に植えられたものである。 京都市

墓地には、江戸中期の俳人 池西言水の墓とその代表作「凩の果は有けり海の音」としるした句碑がある。享保7年(1722)亡くなる。72歳

 

 

 

和泉式部と誠心院

 

和泉式部は、天延2年(974)から天元元年(978)の間に生まれたといわれる平安時代中期の歌人で、中古三十六歌仙の一人に数えられます。本名さえわかっていない。当時の女性の多くがそうであるように゛和泉゛は最初の夫、和泉守橘道貞から、゛式部゛は父大江雅致の官名からとった名である。母が宮廷に出入りしていた関係から、式部も幼くして冷泉天皇の后に仕えた。最初の夫が任国に出張中に、式部の周囲に浮いたうわさがたち、はては、式部が生んだ一人娘の小式部内侍さえ「最初の夫橘道貞の子でない」との流言が飛んだ。京に帰った道貞はカンカンに怒って三下り半をつきつけ、最初の結婚は、数年間であえなく破たんした。冷泉天皇の皇子である為尊(ためたか)と恋をしますが、為尊親王は長保四年(1002)に24歳の若さでぽっくりと死去。時に式部は5,6歳年長の女盛り。その死後、弟の敦道(あつみち)親王と恋に落ち親王の邸に5年ほど住んでいた。

 

彼もまた寛弘4年(1007)に早世しました。27歳でした。式部は34歳。敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記「和泉式部日記」が有名です。その後、藤原道長の娘・上東門彰子(一条天皇の中宮)に女官として仕えます。その後、道長の郎党藤原保昌と知り合い、正式に第2の夫として結婚しました。保昌が丹後守に任ぜられたとき式部も一緒に丹後に行っています。同僚に紫式部や赤染衛門がおり、共に宮廷サロンを築きました。今に伝わる歌集は「和泉式部正集」「和泉式部続集」などがあります。「拾遺和歌集」などの勅撰集に246首の和歌を採られ、「後拾遺和歌集」では最多の歌が選ばれており、屈指の王朝歌人といえます。

 

寺伝では、娘の小式部内侍(こしきぶのないし)に先立たれた和泉式部は、この世の無常を感じ「女人往生」のすべを求めて書写山円教寺の性空(しょうくう)上人を尋ねます。誓願寺の本尊・阿弥陀如来の霊験を教えられ、48日のお籠りの末、「女人の身でも南無阿弥陀仏と一心にお唱えすれば、身の穢れもきえて往生できる」との教えを受けます。その後も誓願寺に参る以外は念仏三昧の日々を送り、その甲斐あって25菩薩に迎えられ弥陀の浄土へ往生しました。それ以後、女人往生を願う人があれば、和泉式部が歌舞の菩薩とお迎えに来て下さるという信仰が盛んになります。

 

上東門院彰子が父・藤原道長に勧めて法成寺東北院に「小御堂」というお堂を建立し、和泉式部に与えたのが、誠心院の起こりとされています。誠心院は和泉式部を初代の住職とし、通称「和泉式部」と呼ばれ、和泉式部の寺として親しまれてきました。以前は「じょうしんいん」と申しましたが、前住職の頃から「せいしんいん」と呼ばれています。ちなみに和泉式部の法名は「誠心院専意法尼」と申します。当初、御所の東、荒神口界隈にありましたが、鎌倉時代には小川通一条上るに移転し、豊臣秀吉の時、寺町六角下ル(現所在地)に移転されました。明治5年(1872) 京都府知事の命令で境内に新京極通が通され現在に至っています。和泉式部忌毎年3月21日。 寺の過去帳に長和3年(1015)3月21日となっています。

 

往時の誓願寺は鎌倉時代以来、多くの僧俗男女が集まった念仏道場であるが、その中には和泉式部の伝記を語り物とし、諸国をわたり歩く比丘尼があって、これが和泉式部の塔を建立された因である。それは塔身背後の基礎に発願者12人の僧尼の名と、正和2年(1313)の銘がしるされている。この石塔は、念仏信仰によって建立されたものと推測できる。昭和8年、重要美術品に指定されています。

 

本堂には本尊阿弥陀如来像の傍らに和泉式部法体の像や藤原道長・上東門院の像が安置されている。しかし、夫橘和泉守道貞、為尊・敦道両親王の像も彼女にしてみれば安置してほしかったのではないか。

 

 

役の行者(神変大菩薩)  水かけの行者さん  神変さん石仏

 

 

 

 

山口甚介一族の墓

 

 

和泉式部 宝篋院塔

和泉式部

平安時代切っての情熱歌人とうたわれる。大胆に愛をうたった歌の多いのが特徴。彼女をめぐる噂の男は多かった。夫以外に藤原道綱、兼房、隆家、源俊賢、雅通・・出家の身で夜な夜な和泉式部のもとに通い共寝の床で読経したという話が伝わる道命阿闍梨など十指に近い。彼女が真剣に燃え上がった恋は、弾正の宮為尊親王と、弟君の帥の宮敦道親王の2人に対してだけだった。この恋、ことに帥の宮との恋の成り行き、その喜びと悩みを約150首の歌をまじえ綴ったのが「和泉式部日記」である。長保5年(1003)は藤原道長が左大臣になってから7年後、長女彰子を天皇の后にして、道長時代の始まったころである。宮との恋はこれから5年、寛弘4年(1007)帥の宮の死で終わった。また和泉式部が前夫、道貞との間に設けた娘、小式部内侍も、万寿2年(1025)母に先立つ。

和泉式部ゆかりの地といわれるところは、北区大徳寺山内の真珠庵に、和泉式部産湯の井戸といわれる井泉。左京区の東北院には和泉式部の遺愛という゛軒端の梅゛。京都府木津町に和泉式部塔がある。

 

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