アートプラス京めぐり

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住吉大伴神社   海ゆかば のゆかりの神社

2015年12月06日 10時08分01秒 | 神社

石鳥居 は 新しい 平成18年 の建立だ

 

明治35年 建立

 

住吉大伴神社

住吉大伴とは古代の豪族大伴氏を祭る伴氏神社に住吉大神を合わせ祭ったことによる大伴氏は、はじめ大和国にあってその勢力を振っていたが平安遷都によりこの地に移住しその祖先の神 天押日命を祭ったのである。「續日本後記」には「承和元年正月賜葛野郡上林郷地方一町於伴宿旅等為祭氏神之処」(834)又「嘉承2年12月授従五位下伴氏神社」(849)とあり、大伴氏は上代の武門の家として、物部氏と共に皇居を警護し禍乱を鎮圧して功を立てた一族であり後に淳和天皇(第53代)の御諱の大伴親王をはばかり伴氏と改めたのである。応天門の変(貞観8年 866)によって伴善男が伊豆に流されてから衰退し伴氏神社の名も疎くなっていったものと思はれる。並河永編するとこちの「山城誌」(享保19年刊 1734)に「伴氏神社(中略)在龍安寺村今称住吉」とあり又伴信友(嘉永元年没 1848)の「神名帳考證」には「伴氏神社(中略)今龍安寺村にありて住吉といふ」とあり、両書とも古伝によるものであるが当社が伴氏神社と同じ地にありながらいつの世にか住吉神社と称せられるに至ったのは伴氏の衰微と共に葛野郡に山荘を営む徳大寺家の領するところとなりその徳大寺家が和歌の神として崇めた住吉三神を祭ったことにより伴氏神社は住吉神社として祭られそれ以来永く龍安寺、谷口地区の氏神として崇敬されていたが、昭和17年8月21日許しを得て、住吉三神及び大伴祖神を合祀、社名を住吉大伴神社と変更して今日に至る。

住吉の神の和と大伴の神の武、それぞれ和武合体中傭を保ちて和平の神と崇められている。

境内社 十禅師権現社、斎ノ宮社、小松尾明神社が奉斎されていたが、何時の世か末社小松尾神社のみが残り合祀されて今日に至る。

「海ゆかば」の碑

祭神の子孫で歌人の大伴家持が作歌(天平感宝元年5月12日 749)した 「海ゆかは 水つく屍 山ゆかば 草むす屍 大君のへにこそ死なめ かへりみはせし」は昭和17年国民の歌に選定され、家持ゆかりの当社にて昭和18年7月5日 大政翼賛会京都府市支部主催にて国民の歌「海ゆかば」選定奉告祭を行い、翌昭和19年8月5日住吉大伴神社顕彰奉賛会によって建碑され、現在境内外苑に保存されている。 以上宮司謹書

 

 

狛犬   後ろは 本殿

 

 

 

末社   小松尾大明神

 

西参道 石鳥居  享保18年(1733) 建立  約300年前 

 

鳥居の建立年からして この樹も相当古そうだ

 

昭和18年12月  茂山千五郎  奉納  久しぶりに見た

 


こんなところに 地蔵さんが・・ひょっとして 

2015年12月06日 00時24分37秒 | 地蔵尊

川の淵ですが  道より1メートルほど 下です

花も供えられています

供えるには 道から降りて 川の中にはいらなくてなりません

なんで こんなところに 地蔵さんが祀られるようになったのでしょう

地蔵さんの上に乗らないように有刺鉄線で柵がしてあります。

 

 

ここは このお宅の敷地内にあります

しかも  方角は 北東角  表鬼門です

御所と同じように 塀が 切り取ってあります

そこに お地蔵さんが 祀られています

意味がありそうです

鬼門の風習かも

 

京都だけでしょうか 表鬼門 裏鬼門 の敷地の角をきったりするのは

 

赤山禅院 付近