千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

アフリカの遠い夜明け2

2005-08-19 23:57:24 | Nonsense
クラシック音楽を好むような女性にとって、アフリカ問題は関心外だ。
モーツァルト、シベリウス、バッハ、上品な音楽を奏でる舞台に、黒人の姿を見かけることは、まずない。
そんな私ではあるが、アフリカの現状を知るにつれ無関心ではいられなくなった。

というわけで前回に続き、残酷な数字の続編である。
世界銀行「2004年世界経済展望」の”展望”によれば、アフリカで「絶対貧困」の範疇に入る人々は、15年前で2億3000万人、現在は3億1000万人、10年後には3億4000万人になると予想される。その一方南アフリカでは、エイズによって毎年40万人の人が亡くなっている。地球上の最貧国の3分の2がアフリカ。寿命最短国35のうち、34がアフリカの国。

こんな現状を欧米、そして日本も見捨てていたわけではない。国際機関債務総額約400億ドルの全額返済免除、2010年までに500億ドルへと倍増。小泉首相も喜んで公約した。そんな先進諸国(旧宗主国)のアフリカへの善意と愛に満ちたお金は、戦後60年間で約1兆円ドルの資金移動に及ぶ。

さて、そのお金はどこで遣われ、どこへ消えたのか。それが謎だのだ。なにしろ、目にみえる経済効果が殆どないからだ。使途不明金でない知りえる事実は、旧ザイールの独裁者モブツとケニアの専制帝王モイ各大統領が30年から40年の長期にわたって、4億ドルもの国際援助金を横領していたことだ。結局、そういうことか。先進諸国のアフリカに対する慰謝料は、ちっとも生かされていなかったというわけだ。世界銀行、国連世界食料計画、NGOが援助の采配も効果はなかった。
こうしたアフリカへの経済援助は、死に至る病に落ちた重症患者への我々の義務だとは思う。
しかしこれまでのように、ただお金を援助するのは、いっときの日本でも流行したらしい”援助交際”に近い。そのようなこどもを、親が育ててしまったような部分もある。こうした援助は、アフリカの自立するこころをむしばむだけだ。
それでなくても、ひとたび気象現象によって食料不足に陥ると、国際的な援助機関が世界に向けて現状を訴える。すると小麦粉やトウモロコシがどーんと届けられる。一部は、飢えている人々に。残りは政治家の私物と闇市へ消えていく。元々タダなのだから、現地の農産価格よりうんと安い。従って徐々に、これらの国の農業は衰退していく。私は、寄付を疑問に思うタイプなので、たとえ冷たいと思われてもアフリカに衣料品を送ったことはない。実際次々と送られてくる衣料によって、結局現地の伝統産業だった織物・縫製工場が閉鎖に追い込まれていく。NHK「アフリカ ゼロ年」では、様々な悲惨な状況に関わらず、人々の服装が清潔で新品同様だったことを、違和感をもって眺めていた。

汗水たらしてえたわけではない、泡沫のようなお金が、権力の腐敗と更なる不平等という悪循環を生むのを、すべてアフリカ人の無教育と無責任に原因を求めて責められない。それはどこの国、何処の民族でも起こりうる人間の生々しい悪である。人的資源の育成につながる教育システムの構築、海外資本を呼び込めるライフラインやITの充実、きちんとした政府による統治の確立、治安の安定、高い資質の医師や教師の確保。ひとつひとつ課題をクリアーしていかないと、将来も未来もない。生きていくうえでお金は必要である。けれども本当に我々の税金は、いかされていたのか。かって似たような状況から復興したアジア・太平洋地域に学ぶことは多いのに。グレンイーグルズサミットG8の各国首脳の表情は沈痛だ。

ケニアの「地域間エコノミックネットワーク」を主宰するエコノミスト、J・シクワチ氏は、
「援助を多く受け取った国ほどダメになったことを、アフリカ解放後の40年間ははっきり教えた。どうか我々の自立に手出しをしないで欲しい」
そう嘆くのだが。

自然と人の美しい写真を掲載した」、「ナショナル・ジオグラフィック」誌9月号アフリカ特集の表紙は、17年ぶりに写真もイラストもない。
「アフリカはひとつではない。どんな1枚の写真もアフリカの深さを伝えられない」のが理由とのこと。

-Whatever you thought,think again.

「はやぶさ」と「イトカワ」の”天使の距離”

2005-08-18 22:58:34 | Nonsense
「はやぶさ」目指す小惑星「イトカワ」撮影に成功 (読売新聞) - goo ニュース



この間、ロケット博士の糸川英夫氏の評伝「やんちゃな独創」を読んだとき、ある小惑星(仮番号1988SF36)の命名権をもつ米国チームに、「イトカワ」という名前を申請して認められたというくだりがあった。なんと、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が、この小惑星「イトカワ」をめざして、探検機「はやぶさ」を2003年5月9日に発射させていたのだった。

この「イトカワ」は、地球から約3億9千万キロメートル離れた軌道で太陽の周りをまわっている。体格はおおよそ500m×300m。惑星の中では、とても小柄といえよう。昨年5月19日に地球スイングバイを成功させ、順調に軌道にのせ、8月12日に、「イトカワ」から約3万5千キロの距離を毎秒38mで接近している。その探索機「はやぶさ」搭載の星姿勢計(スタートラッカ)が、とらえた画像が上記の写真になる。今回のイオンエンジンを利用して、目的の天体に精密に誘導するのは、世界初の試みだそうだ。JAXAでは地上からの電波による観測と、この搭載カメラによる画像の計測をミックスさせて計算する。こんな複雑な計測に成功するなんて、米国NASAの宇宙飛行成功のかげに隠れてしまうが、もっと注目しても良いと思う。
何しろ、来月中旬には、1秒ほど接触して地表から岩石片のサンプルを収集、2007年にはおみやげをもって帰還する予定である。ご承知のように、人類がサンプルを持ち帰った天体は月しかない。おおいに期待できるプロジェクトである。

気の遠くなりそうな時間と距離と空間を超えて、わずか”1秒”ほどの接触。まるでGackt語でいう”天使の距離”というKISSを連想させるが、この1秒にこめられた意味は大きい。

『恋する神父』

2005-08-17 22:18:50 | Movie
韓流ブームは、どうやら本物のようだ。
一過性の流行もので終わらず、ひとつのポピューラーなジャンルとして定着しそうだ。何しろ女性が集まれば、必ず話題になるのが韓国ドラマと韓国俳優。なかでもペ・ヨンジュンをおさえて、第2コーナーを快走しているのが、クォン・サンウ。その魅力を問うと、カラダがいい!と即答され、思わずのけぞってしまうではないか。身長183センチの長身に、童顔甘めなルックスを裏切るほどよいマッチョさが、どうやら大和撫子のハートをわしづかみしているらしい・・・。韓国旅行で買った、クォン・サンウの顔がプリントされた靴下を、宝物のようにしているファンもいる。

そんなクォン・サンウが、品行方正、真面目で純粋、女性にオクテな主人公を演じた。電車男ではない。彼は神学生なのだ。
カトリックの神学生ギシュク(クォン・サンウ)は、厳粛なるミサの最中に学友のソンダルのおかげで、大失敗をやらかしてしまう。もうじき正式な神父になれるはずなのに、あわや退学かとあせるが、田舎の教会でふたりは修行することになった。どこまでも続くのどかな田舎の夏の田園地帯。ここで神父になるべく奉仕と勉学に励むはずだったのだが、アメリカから恋人を追いかけてきた帰国した自由奔放な神父の姪、ボンヒ(ハ・ジウォン)のおかげで受難の日々。なんたることか。これも神が与えたもうた試練であろうか。顔をあわせれば、喧嘩し、ボンヒにふりまわされるギシュクなのだが。

生真面目で優柔不断、けれども清流のようなこころをもった男の子と、奔放で短気、気が強いけれど実は繊細な感受性の女の子とのラブ・コメディ。これはもはや「水戸黄門」のように古今東西に定番化している。そんな食べあきたような定食を、新鮮な味付けでフルコース満足できるのは、やはり韓流映画が流行でなく本物だからだろう。日本では、あまりにも類型化している主人公のキャラクターも、神学生という衣装をまとえば、その純粋さと生真面目さを納得でき、滑稽なふるまいも素直に笑える。そして、あの黒い神父の服をまとっているのが、なんといってもクォン・サンウだ。確かに、支持率を伸ばしていることに納得。女の子と夜遊びして門限やぶりが日常の学友を諌め、せまるミサの時間に神父服をスカートのようにつまんで長い脚で走る姿が、、、か、可愛いじゃん!恋に悩み、迷い涙ぐむ姿がいじらしい。。。
(思わず、Gacktさん、浮気してごめんなさいと言ってしまいそうだ)
また次々と笑えるシーンが、バッティングセンターの球出しのように小気味よく続く。

そして、妻帯を禁じられた神父になる儀式になる日がやってくる。
神父になるということ。神に生涯を尽くすということ。自分の愛する人は、親よりも女性よりも神であるということ。神学生の煩悩と静粛な精神とのゆらぎが、この映画に若い清々しさを与えている。私が最も気に入ったのが、女遊びはするし、自堕落で軽くて神父として最も遠いところにいた友人のソンダルの変化だ。彼はギシュクがボンヒとのどたばた喜劇を繰り返している時に、実は神父とアルバイトをして、その賃金で村に電灯をつけた。その灯りを見て、彼は言う。
「俺、自分で自分のことを怖いとはじめて思った。本当に神父になるかもしれない」
この自分を怖いと感じる感覚、まさに鳥肌がたつような名セリフだ。

デオ・グラシアス。。。
私だってクォン・サンウと一緒に食べたい綿菓子の味。


「水平記」山文彦著

2005-08-16 23:19:56 | Book
松本治一郎。かって明治から昭和にかけて、時代を思う存分に生き抜いた大きな、大きな男がいた。
明治20年に生まれ、昭和41年に没するまで生涯を被差別階級の人々の解放のために闘った男。「解放の父」こう紹介するとイデオロギーを実践する非情なリアリストか、夢見る深窓の令息のようなロマンチストを想像されるかもしれない。けれども松本治一郎は、どちらでもない。机上の理想論に溺れて酔うこともなく、時流に流されることもなく近代国家への歩みをすすめる日本という国と正々堂々首尾一貫とした正しいセオリーで闘う一方、常に弱者への思いやりと配慮を忘れなかった。700ページ以上に及ぶ「水平記 松本治一郎と解放運動の100年」は、まさに日本が明治維新から昭和まで、治一郎を中心にまだ明けきれぬこの国の時代の暗闇とともに、いかに多くの人々が差別と闘い、この時代をかけぬけていったかの軌跡でもある。

松本治一郎は、福岡県筑紫郡豊平村に比較的裕福なに生まれる。幼年の頃は、当時から抜きん出て体格も大きく、負けん気が盛んだった。思春期に入ると上京して、私学に通学するも暴力沙汰を起こして、次々と放校になる。明治36年中国に渡り、大道易者、あやしげな薬を売ったりしながら大陸を放浪する。やがて強制送還されて帰国すると、実兄が創設された松本組で、多くの被差別階級出身の労働者とともにつるはしをもち、額に汗水たらしてドカタの仕事に精をだす。(後年、この松本組は治一郎の政治活動資金を援助し経済的基盤をなし、今では九州地区大手ゼネコンに成長している。)すでに「おやじ」という愛称をつけられた彼は、毎晩のように腹巻に札束をいれ、仲間とともに博多の夜に繰り出し、酒を呑み、女を買っては博打というやんちゃな青春時代を過ごす。

やがてそんなただの体格のよい肉体に恵まれた若者としての生活に転機が訪れる。
大正5年6月17日の博多毎日新聞事件である。
「浮世覗眼鏡」というタイトルで、火葬にたずさわる被差別階級者への侮蔑に満ちた記事に怒った”男衆”が、毎日新聞を襲撃した事件である。この時のワッショワッショと追山笠祭りの如く血気盛んな男衆の襲撃は、翌日の民の働き盛りの男たち全員の大量検挙という報復を受ける。事実確認も人権もなにもない。民だからという理由で、村から根こそぎ検挙、逮捕を行ったのだ。今までも出身ということで、教育の場、職場、結婚などで様々な差別を受け、屈辱を味わっていた彼らには、またかという気持ちが淡々とのぼるだけだ。差別が貧困と侮蔑をうみ、貧困があらたなる差別をうんだ社会。この時29歳、治一郎は直接事件に関わったわけではないが、これを契機に民自らが組織をつくり、差別をなくすための自立した闘いの必要性を感じ、酒、煙草、博打、妻帯、ネクタイの「五禁」を課し、粗末な家に住みながら貧窮している人々への炊き出し、不当逮捕による者への保釈金や、若者への学資援助など、なんの見返りも期待せず、ただひたすら日本から、またこの世から差別をなくすための運動に生涯を捧げることになる。

しかし治一郎のゆくてには、多くの困難が待ち受けていた。何度も冤罪による逮捕で獄中生活を経験し、同志を過酷な拷問によって失ったこともある。やがて民のみを構成員とする「」の最高指導者となり、戦前、戦中の軍部のいかがわしさを暴き、共産主義にもまれ、右翼から命の脅迫を受けても意に介さず、陰謀と策略による大きな波に何度も転覆しそうになった「」という船の船長役を、その真実を見極める目と正しい信念で貫き通した。なかでもへびように執念深く策謀をはりめぐらし、治一郎を追い落とそうとしたのが、吉田茂だった。参議院議員として政界に進出した治一郎を、何度も公職追放にしようと謀った。そして下山総裁謀殺事件に代表されるように、GHQによる熾烈なレッドパージがはじまるとその意向を利用して、巧みに治一郎を国会から追放した。しかし米国「ライフ」誌が吉田茂がホイットニー将軍へ宛てた手紙をすっぱぬき、政治的陰謀が暴かれると国会でも追及され、再審査請求の嘆願署名が100万人も超えた。それらをすべてワンマン首相は無視した。尚且つ、1万90人の公職追放者の解除を宣言するが、ただひとり治一郎の名前だけは、最後に自分のところにリストがまわってきた時に、削除する。それを知った治一郎は怒るでもなく、「吉田君は、よほど僕のことが怖いのだろう」と苦笑いをした。治一郎には、このような泰然として茫洋たる気風がある。
この時の吉田茂のしたことは、ただ厄介ものたちを社会から追放したいだけだった。元々公職追放者は戦前からの裕福な支配者だった。なんてこともない、解除後、利害が一致している彼らは復帰すると、再び社会の支配層として人々の上に君臨したのである。

やがて5年後、政界に復帰した治一郎がそんな吉田茂と再会する時がきた。
昭和28年参議院本会議でのことだ。
「吉田君、今からでも遅くはない。世界平和のために、この平和憲法をあくまで守り抜く意思と勇気があるか」
と挑むようにいった。礼を失して逃げの一手の吉田の答弁だったが、気の小さか男やけん、ひとりじゃ、なあんもでけん男やとその性格を見抜かれていた。

晩年の治一郎は、一国の差別だけでなく、「世界水平」という目標に海外へも視野を広げ、中国、韓国、ベトナムをはじめ多くの国を訪問し、講演を行った。インドでは、イギリスの巧妙で狡賢い統治政策を見抜き、ロシアで共産社会にあるまじき特権階級の存在に気づき怒り、精力的に活動した。中国では一番最初に恩義を感じている人という意味で「井戸を掘る人」として語られた。見事な生き方である。吉田茂の名前は、今後もずっと日本の政治史のなかにその”素晴らしい”政治的手腕の業績とともに残るであろう。松本治一郎の名は、やがてまもなく消えていき、忘れられるだろう。それで良いのかもしれない。その時が、本当に治一郎が望んだ差別のない世界が実現する日なのかもしれない。

本書の魅力は、治一郎を主役とした群像劇でもある。或る眉目秀麗な美青年は、思いつめて14歳の娘と心中未遂事件を起こし、ある者は仁義なき戦いの如く、華族の屋敷に火を放ち、またある者は受けた恩義を足蹴にするかのように転向して去り、の活動資金が底をつくと必死に窮乏を訴え金の無心をする者もあり。純粋で、愚かで、過ちも犯すが、貧しく必死に生きている彼らの姿は、「物語三昧」のペトロニウスさまの言葉を拝借すると、まさに”不思議な輝き”を帯びているのである。
時代を駆け抜けた治一郎と彼らの足跡に、私はかすかな、しかしたくさんの光芒を見る。

著者の山文彦氏は、1958年生まれ。ハンセン病と闘いながら早逝した作家の評伝「火花 北条民雄の生涯」で、ノンフィクション作家としての評価を高めた。その著書を上梓して間もない頃、神田古書店で「松本治一郎伝」という一冊の本にめぐりあう。その本を手に読み進むうちに、評伝で北条民雄を「忘れられた」とするのは誤りで、「忘れていった」と書いた文章が、そのまま自分への批判となって返った。そして山氏を最終的に筆をとらせたのは、長崎の原爆で母を失った青年に送った治一郎の短い一文である。
そこには、こう書いてあった。

  -生き抜け、その日のために。

『風の痛み』

2005-08-15 23:09:39 | Movie
トビアシュ(イヴァン・フラネク) は毎日5時に起床。まだ薄暗い村をはうように走るバスに乗って、時計工場へ向かう。作業着を着て、うつろな目でただひたすら穴をあける作業をこなす。どうせここにいる誰もが、完成された時計など作れないのさ。そうつぶやく彼には、少年時代に東欧の貧しいある村、そして村一番美しい若い母から逃げ出して、この国スイスに亡命した過去と秘密があった。
毎日毎日、ただ機械で穴を開けるだけの単純作業の気の遠くなるような繰り返し。
それでもなんとかやっていけるのは、帰宅後のこの国での公用語で書く小説や詩の創作活動が待っているからだ。そして夢見る永遠の憧れの女性リーヌという未知の恋人だ。週末料理を作ってくれて、ベッドをともにするはつらつとして笑顔も肉体も魅力たっぷりの彼女はいる。彼はもてるのだ。けれども彼女は、永遠の恋人ではない。だからただの一度も愛情を感じたことがなかった。

そんな或る日、トビアシュは工場の食堂で懐かしい女性を見かけて驚く。黙々と周囲の者を寄せ付けないかのように本を読む女性は、小学校時代のクラスメートだった。彼女の清楚な横顔に、決して忘れることのできない苦しい秘密がわきあがる。その凛とした女性は、農夫相手に娼婦をしていた母の常連客で自分が刺した教師の娘であり、異母妹だったのだ。カトリーヌ(バルバラ・ルクソヴァ )だ。叫びそうになる声をかろうじておさえて、彼女を観察する。
やがてカトリーヌという名前から幼い頃「リーヌ」と呼ばれていた彼女を見て、自分が求めていた永遠の女性が彼女だったと悟るトビアシュ。

その日から、彼の生活はリーヌへのただひたすら一途な想いで、走り始める。なけなしのお金をはたいて買った自転車で彼女を追いかけ、あげくのはてに双眼鏡で部屋をのぞく。恋する情熱よりも、運命が彼を突き動かしている。しかしリーヌは、物理学者の夫と娘の生活費を稼ぐために一年間の予定で、工場での屈辱的な仕事をしていたのだ。故郷の東欧で弁護士の兄と医師である弟につりあった、研究者である夫。激しく求めてくるトビアシュの前にたちはだかるのは、妻という立場と経済的に不遇を送る国の国民としての、せめてもの教養人としてのプライド。

この恋愛映画は単純な不倫ものでも、血のつながった兄妹の物語でもない。母殺しや近親間の激しい愛情を描いても、そこには一般常識的な嫌悪やタブーは感じられない。あたかも倉橋由美子の小説を読むような、貧しいながらも世間から遠く隔たった恋の王国の御伽噺の住人のようだからだろうか。それは又、東欧と西欧にまたがった緊張関係と経済格差、周囲の孤独な移民生活者たちの生活の断片に飾られた不思議な物語でもある。詩情豊かで、寂しい色調の美しい絵画のような映像におさまるトビアシュとリーヌ。やがて彼らは陽光のきらめくイタリアへ旅立っていくのだった。

アゴタ・クリストフの原作「昨日」を、シルヴィオ・ソルディーニ監督が映画化した朝日新聞主催イタリア映画祭で評価の高かった3本のうちの1作品。
観客動員数と作品の質が、必ずしも一致するものではない。多分、名作だけれどこの映画を観る人は少ないだろう。

監督インタビュー


『浮気な家族』

2005-08-14 22:46:17 | Movie
韓国で動物学者アルフレッド・キンゼイ先生が、「キンゼイ・レポート」を発表したら、はたしてどういう結果がでるのだろうか。
儒教の国、男尊女卑がまだ残っているお隣韓国。韓国映画で清楚でけなげな女性を見て共感するところも多かった。けれどもこの国も徐々に欧米化しているらしい。
結婚した数年たった主人公のホジュン(ウン・ホジョン)は、近頃欲求不満。何故ならば、新進弁護士の夫ヨンジュク(ジュ・ヨンジャク)との夫婦生活がつまらないのである。夫のオツトメが、妙に儀礼的できもちがこもっていない。。。
    ・・・というわけでこの映画は、、、  なのだ。

仕立ての良い法廷にふさわしいダーク・スーツ、それとセンスよくおしゃれなシャツとネクタイが、この弁護士である夫の矛盾を語っている。朝鮮戦争の犠牲者のために奔走する仕事を精力的にこなす一方、私生活でも元モデルとの情事も精力的にこなす。そんな”充実した”生活だが、チャーミングな恋人の妊娠をきっかけに、益々きもちは彼女に傾斜していく。出張と嘘をつき、恋人と一晩過ごした翌日、危うく酔っ払ったスクーターをはねてしまいそうになる。妻の方は、全裸で体操をする自分をのぞいていた隣家の問題児である高校生と山登りにでかけている。

それぞれがそれぞれに、危うい快楽とゲームに興じているが、そんな夫婦の気持ちをつなげているのが養子である小さなスイン。そしてガンに倒れた父親の存在だ。ホジュンも妻として、夫も満足できるくらいに義父の介護をするが、臨終のときを迎える。その葬儀の夜、60歳を超えた母親が告白する。爆弾発言だ。
「実は恋人がいる。15年ぶりのSEXをして、はじめてエクスタシーを感じた。」
仰天する息子となんとなく理解する嫁。
父親が病に苦しんでのたうちまわっていた時も、母親はおしゃれをして恋人の爺さんとの情事にふけっていたのだ。→

喜劇か悲劇か。
夫婦の受けた天罰は、あまりにも大きかった。物語は最後まで、夫の自己中心的な欺瞞を暴いていく。それが哀れさよりも滑稽にみえるのが、この映画においては救済だ。ウン・ホジョンは「オアシス」で重度脳性麻痺の女性を演じて、その演技力の評価は高い。この映画では、主婦業のかわたらダンス教室の講師を勤めるという役柄から、奔放な場面が多い。大胆な”からみ”でも扇情的でないのは、少々おばさんぽさを醸しているからだろうか。だって1947年生まれの母親役のホン・ビョンハンの下着姿とベッドシーンの衝撃に負けているかもしれない。。

韓国でも女性は強くてたくましい、そう実感する映画だ。そして女は怖い。
老いて尚盛んな母がいう。「女の人生はおっぱいと同じ。だんだんしぼんでくるの。でも私は、今の私が一番好き」
ふふふ・・だから男性諸君への、キンゼイ警告レポート映画ともいえよう。
監督・脚本:イム・サンス

「アフリカ ゼロ年」感染爆発が止まらない~南アフリカ 届かないエイズ薬~

2005-08-13 19:24:37 | Nonsense
南アフリカの経済中心地、ヨハネスブルグはその名のとおり清潔で近代的な佇まいをみせる。素適なショーウィンドーが、白人や黒人の行き交う人々の裕福そうな姿を映している。やがてカメラは郊外の街並を移動する。緑の芝生にこの土地の気候にふさわしいプールつきの大きな家、カルフォルニアの高級住宅街のような風景は、GDP比が毎年3%も伸びているアフリカ経済の優等生を証明している。その奥に、貧相で今にも倒れそうなとても人が住むような”家”といえないバラック小屋の集落が待っていることを、誰も想像できないくらいに。

アパルトヘイトが解放されて、高い賃金を求めて農村から人々が、日本でもおなじみの世界の工場が並ぶ郊外へやってきた。しかし仕事にあぶれた人々がいきついた住処が、その名も”スウィート ウォーター”地区。ここでは6人にひとりがエイズ感染者である。先進諸国では、すでにエイズは不治の病ではなく、激減しているというのに。南アでは、感染者が530万人、年間40万人の人が亡くなっている。原因は稼ぎを得た男性と感染者である女性との売春がきっかけといわれている。そこから妻、こどもへと広がった。この地区でエイズに苦しむジリンディーレ・フラニス(28)は、そんな多くの患者のひとり。しかし彼がエイズの治療を受けることも薬を飲むこともない。週に2回やってくる診療車には医師の姿がなく、看護士が気休めのビタミン剤を与えるだけ。また30キロ離れた病院へ行くにも、往復のバス代にも事欠く。年収6万円で生活する彼らには、年間25000円に及ぶ治療薬を支払う能力がなく、日々衰弱していく体を、バラックの小屋の中で横たえて耐えるだけである。

1981年米国でエイズが発見されると、世界中の製薬会社が治療薬の開発にとりくんだ。95年カクテル療法と呼ばれる画期的な治療薬抗レトロウィルス薬の開発資金を回収するためには、当初年間120万円を必要とした。高価ではあるが、先進国では患者が激減した。インドやブラジルでは、いち早く製造方法を換えたコピー薬で対応したが、外国資本導入を計る南アでは、特許について厳しい規制を設けていたために安価なコピー薬は許されなかった。しかし危機感を感じていたネルソン・マンデラ大統領が、コピー薬輸入を可能にする薬事法の改正を決断。ところが先進諸国の製薬会社が猛反発して、企業の利益を損なうと裁判に訴えた。特許か命か。命優先の世界の声が製薬会社を追い詰め、4年後”特例”措置として知的所有権を問わないことになり、価格を下げることにつながった。

南ア政府は、次の打開策として2年前、エイズ感染者の1割に無料で治療する決断をした。しかしながら保険省の計画書によれば、08年までに900億円の資金がかかり、医師、薬剤師などの人的資源、設備面すべてが質量ともに不足していることから、困難が予測されている。また治療薬は続けて飲まないと抗体ができて効かなくなってしまうので、今は新患者へ回す薬はない。

その一方で、米国ブッシュ大統領は2003年に、ムベキ大統領と自由貿易をすすめる「アフリカ成長議会法」を結ぶ。南アに対して自動車や金の輸出のかわりに、薬を含めた知的所有権の保護を求めた。市場を開放して経済的に豊かになり、貧困をなくすことによってエイズを解決しようという目標も、ひと握りの富裕層へお金が流れていくだけになり、富と貧困の格差をひろげるだけの結果になった。こうした状況に警鐘を鳴らすのが、オーストラリア大学のピーター・ドラホス教授だ。
「自由貿易の恩恵は、貧しい人々の犠牲に成り立っている。国民の健康など重要な部分を米国に握られている。」

かってこの地では、300もの法律で国民の8割を占める黒人をしばるアパルトヘイト時代があった。80年代国連は人道に対する罪として経済的制裁を発令しようとしたが、反対したのは米国とイギリス、そして日本だった。91年にアパルトヘイトは廃止されると、黒人による報復を恐れたネルソン・マンデラ大統領は「真実和解委員会」で人種間憎悪と怨念を和解へと導いた。その委員会で力を尽くし、ノーベル平和賞を受賞したデズモンド・ツツ大司教は、スラム街に暮らしている現実を見据え、
「今後格差が減らないのなら、私たちは和解に別れを告げる」と怒りをあらわにする。何故ならば「グローバル化の問題は、強いものがゲームのルールを決めることだ。そのルールは豊かな者の味方で、貧しい者の味方ではない。世界は家族のようにひとつにならなければいけない。それがグローバル化の本当の意味だ。」

フラニスは苦しみのなかで、この世を去った。彼の兄は無気力に、「この国はいずれ地獄を見る。何故ならば、幼いこどもでさえもエイズに感染しているから。」と墓の前で語る。エイズによる孤児は、80万人を超えている。若い世代がへって、確かな未来をみいだせないまま漂流しているのが、南アフリカである。
7月に開かれたサミットで、こうしたアフリカへの支援として主要8カ国は今後5年間で5兆円の追加支援を決定した。但し、知的財産保護の更なる徹底を条件に。

*全4回アフリカ問題を企画した桜井均エグゼクティブ・プロデューサーは、
「グローバリズムの世界では、どの国も同じトラックを走っている。だが実際にはアフリカ諸国は何周も遅れている。せめてゼロからのスタート地点に立つのに何が必要かを考えたい」と話している。正当なる競争がもたらした現実は、弱者をさらにふりおとし、彼らの命さえ踏み台にしかねない。アフリカ問題は同じ時代、同じ地球に生きるものにとって、大きな、そして複雑な課題をもたらしている。

アフリカとエイズ薬の流れをご参考までに。



エネスコに聴くバッハ「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ集」

2005-08-12 23:44:51 | Classic
J・S・バッハの「無伴奏ヴァイオリンソナタ集」は、世界中のありとあらゆるジャンルのすべての曲のなかで、最高峰であり究極の音楽だと私は思っている。というか断言しているのだが。芸術に順位はつけられないことは充分に承知しているが、バッハのこれらの曲はヴァイオリンという楽器の魅力と音楽の宇宙観が凝縮されていると言ってもよい。CD、生演奏と多くのヴァイオリニストの演奏を聴いてきたが、演奏家としては”この人!”と恋に落ちる方にはいまだ出会っていない。

さて、そんなこだわりのバッハをジュルジュ・エネスコが演奏しているCDがあると「ETUDE」のromaniさまより教えていただき、早速翌日、台風到来で5時にベルダッシュできた日に、山野楽器で無事購入。ほぼ毎日帰宅後、料理をしながら聴いている。

エネスコ(Georges ENESCU )は1881年にルーマニアで生まれ、1955年にパリにて没す。
幼少の頃より、その音楽性を開花させる天才にありがちな早熟性を発揮し、7歳でウィーン楽友協会音楽学校に入学し8歳でヴィオリニストとしてデビュー。1895年にパリに渡り、パリ音楽院で作曲と和声法を学び、その後は亡くなる直前のNY演奏会に至るまで、ヴァイオリン演奏会だけでなく、作曲家、指揮者としても活躍する。今年は没後半世紀にあたる。といっても、格別なイベントはないようだが。

5年くらい前、BSクラシックでエネスコと同時代のヴァイオリニストのジャック・ティボーの演奏を観たことがある。その番組で当時の演奏スタイルは、今と違って生真面目でしなやかさに欠けるという印象があったが、やはりエネスコのバッハも地味ともいえる。現代の小数点以下の残響音にこだわるハイテクなコンサートホールでの響き、編集して音のひとつひとつを磨きぬいたCDでの演奏になれてしまうと、エネスコのような演奏は、アラがめだつが逆になんともいえない懐かしさがこみあげてくる。最初は、音のくもり(録音状況の悪さからくるのだろうが)や、音程の悪さ(特にパルティータ3番、プレリュードのでだし)が気になった。しかし演奏家の人間性という不思議な生々しさが、バッハの音楽にからみあってうかびあがってくるからおもしろい。厳しさやメニューインの演奏のような神々しい天国への階段を感じる演奏もあるが、ここにはエネスコの恵まれた音楽人生のおだやかさとぬくもりがある。(エネスコと完全に同時代を共有していない者としての、ヴァイオリンという愛すべき楽器へのオマージュが、そんな鑑賞と感傷を与えているのかもしれないが。)にも関わらず、演奏家の真価を問われるバッハの命ともいえる高貴さは失っていない。

そんなことを考え、感じながら今夜は雨の音とともに聴く、エネスコのバッハだった。
*私が聴いているのは、IDIS盤でなくLa Voce=Tone Rede盤・・・らしい。

つんくが振る「運命」は如何に

2005-08-11 23:21:11 | Classic
小泉首相のお気に入りアーティストのYOSHIKIさんは、かって音大受験をめざしていた経歴とバンド時代の輝かしい実績を買われ、東京シティフィルでの指揮、愛知万博でのオープニング曲の作曲など、近頃クラシックとポップスを融合した活動もしている。しかしこうした活動は、YOSHIKIさん自らが企画して、というよりもその人気と話題性だよりという面もなきにしもあらず。

ところが、モーニング娘。(私は、ついこの集団を”モーブス”と言ってしまうのだが)など、数多くのタレントのプロデュースを手がけたつんくが、クラシックとポップスの文字通りの融合を謀り?、あの「題名のない音楽会21」デビューをすることになった。しかも「クラシックの魅力をわかりやすく伝えたい」と、自ら企画を持ち込んだというから驚きだ。これは本気かもしれない。。。
つんくとクラシック音楽の出会いは、『キッスは目にして』という音楽を聴いて『エリーゼのために』と同じ音楽だとわかったとき、クラシックがさまざまなメロディーの宝庫だと気づいたからだそうだ。(メロディーだけではない、リズム、ハーモニーでも本当は宝のやまだ。)その体験がまた、音楽暦わずか3年のつんくを「クラシックは究極のポップス」と位置付けるようになった。(いやいや、クラシックは究極のロックでもあり、チャイコフスキーなど演歌だと思っているのだが)

そして初回戦はなじんだ手法で「クラシック娘。」なる声楽を学んだ女性6人を結成して、モー娘のヒットソングをクラシック風に編曲して歌わせることになった。ちょっと心配なのが、独特の声楽の歌唱法が、逆に単なるパロディになってしまわないかということだ。そしてたとえ相撲取りのような威風堂々たるオペラ歌手が、蝶々夫人や椿姫のビオレッタを歌って悲劇を演じても、実力があれば我々は感動の涙を流すものだ。それは作曲家の真の芸術性と歌手の声に感動できるからだ。それがモー娘。の歌だぞ。はたして共感を得られるのだろうか。

いずれにしても今月21・28日に、「題名のない音楽会21」でつんくが指揮するベートーベン「運命」とともに、その全貌?があきらかになる。
今後も継続していきたいという意欲をみせるつんくのプロデューサーの力に、すがりつきたいようなクラシック音楽会(界)でもある。

追記:そういえば某所で「やっぱり買うしかないでしょ」とノダメ・カンタビーレのお話を読んだのだが、まさに先週の芸術劇場で話題にとりあげられたのが、クラシック音楽界を題材にした漫画、「プライド」「ノダメ・カンタビーレ」だった。評判が良いらしい。主人公ノダメが整理整頓が苦手、けっこうあたっている。実は気になっているのだった。



精子バンクもオンライン化-米国発

2005-08-10 23:29:55 | Nonsense
アメリカという国は、本当におもしろい国だ。発想のスピード感が他国と違って断然速い。しかし、なにかそこにおかしさとカルさも感じられるのだが。

アメリカは国土が広いため、通信販売が行き届いている。そのため日本以上にネット・ショッピングが盛んであるが、こんなオン・ライン銀行が誕生している。
妊娠したい、つまりこどもをもって家庭をつくろうと考えている女性は、シングル、既婚者(パートナーあり)の区別なく精子バンクのウェブサイトにアクセスして、精子ドナー(提供者)候補のリストを閲覧できる。気になる男性の顔を見つけたら、身長・体重は勿論のこと彼の教育レベル、民族的背景、場合によっては音声インタビュークリップで、家族の病歴を聞くこともできる。

不安を感じる方には、登録料の明朗会計、提供者の評価基準、会社の方針などの説明もサイトにアップされている。近頃では、精子ドナーの選択は、殆どネットで行われているという。しかも「カルフォルニア精子バンク」の責任者アリス・ルビー氏によると精子提供者の募集もオンラインで行っているということだ。

流れも簡単で手軽だ。
①まず産婦人科医にカウンセリングを受けることが望ましいが、必ずしも必要というわけではない。
②精子バンクに登録用紙を請求
③精子バンクの方針に従って、医師に署名をもらいFAXで返送
タイミングをみはからって、オンラインで発注。翌日配達便でやがて魔法瓶のような入れ物に入った冷凍精子が届く。
そして最も適切な日に、精子の入ったガラス瓶を脇の下で体温と同じになるまであたためる。(以下略・・・)

こういう呼び方が適切なのかと思うが、このような方法を”補助生殖”と翻訳者は訳している。まるで好みの洋服や投資ファンドをネットで発注するかのように、登録から注文まで自宅で手軽にできる。一部ニューヨーク州の「アイダントラボラトリーズ」のように受注から先は、一般の希望者と契約せずに医師を通している会社もある。
まさかと思っていたが、本当だった。やっぱりね、という方がむしろふさわしいのかもしれない。米国大統領選では、宗教がらみの中絶問題が必ず争点になるというのに、命の誕生に関してはまた別のハナシなのだろうか。それともここがシュワルツネーガー知事が統治しているカルフォルニア州という、陽気であかるいお国柄がうんだ”信託銀行”なのだろうか。こうした商売の是非をここでは語らないが、つくづく国民性の違いを感じる。
けれども、幼少の頃からPCゲームとネットに慣れている体と頭脳とルックスに自信のある大和男児が、海をこえてネットでマイ精子を提供する日がくるかもしれない。