常に商業ベースとは別の次元で良質の映画を提供している「岩波ホール」の創立者の一人、川喜多かしこさんには生涯”様”をつけて敬う俳優が3人いるという。ジェラール・フィリップ、市川雷蔵、そして日本を韓流ブームで席巻したペ・ヨンジュンだ、いやヨン様である。さすがに成熟して目が肥えてらっしゃる映画人らしい選択であるところに、異論はない。確かに美しい俳優だ。
しかし、この3人の方達をもって”美形”とはいわせない。何故ならば、彼らはもう”オジサン”だからだ。美しいという形容詞には含みをもたせた流れるような響きがある。が、”美形”という名詞にははっきりと固定された枠の範疇におさまるべきものがある。つまり賞味期限のアッパーは24歳。
そんないい男先物買いの私の”美形”の定義にあてはなる旬の俳優は、『藍色夏恋』で主演したチャン・シーホウ、そして「ロング・エンゲージメント」に出演しているギャスパー・ウリエル。
ギャスパー君の来日インタビュー
そんなわけでせっかく日本でも認知されつつある彼のカンヌ映画祭で評判をよんだ映画「かげろう」をふりかえりたい。
1940年フランス。初夏の光がこぼれる中、戦火を逃れるために南下する車と人々の行列が続く。その中には夫を亡くした教師である未亡人(男はやもめというが、女性は未亡人だ)オディール(エマニュエル・ベアール)が、13歳の長男フィリップ、7歳の幼い娘カティを必死に守りながら車を運転している姿もあった。そこへ突然のドイツ軍の空爆が襲い、次々と倒れる人々の群れから、17歳の青年イヴァン(ギャスパール・ウリエル)に助けられ森の奥へと逃れていく。やがて辿り着いたのが、疎開して空家になっている音楽家の屋敷。青年と家族はその家で不思議な共同生活をはじめて難を逃れることになる。青年イヴァンの粗野で無教養なふるまいにはじめは目をひそめ、こどもたちに悪影響を与えないよう極力しりぞけていたオディールだったが、やがて戦時下の非常事態に彼のたくましい生活力と汚れのない魂に惹かれていく。
きらめくようなつかの間の光り溢れる平和な日々も、オトナのフランス兵士の訪問によって物語は急展開していく。そして衝撃的な結末に観る者の心はゆさぶられるであろう。
エマニュエル・ベアールのかわらない豊満な美乳に顔をうずめようとしている↑こんなパンフレットに、奥様向けの人妻と若者の不倫ものの昼メロとあなどってはいけなかった。アンドレ・テシネ監督、「ベルリン・天使の詩」の撮影監督アニエス・ゴダール、「太陽と月に背いて」の製作者ジャン・ピエール・ラムゼイ・レヴィという顔ぶれに、この映画の気合いと質の高さに納得。だからフランス映画は病みつきになる。
17歳の青年は、タレントの石田純一のような軽チャーもなければ、韓国ドラマ「美しき日々」の室長のようなお金をかけた愛の演出テクニックも知らない。なぜなら生い立ちと育ちかたゆえに言葉も稚拙で貧困、スマートな人の愛しかたもわからない。それらを学ぶ機会がなかったから。そんな彼にとってたったひとつのかけがえのないつながりを断たれたとき、拒絶されたときの絶望感。それは以前紹介したある精神科医の悔恨が示すように、かくも深いものなのである。
イヴァンの最後にとった行動を私の友人は理解できなかった。それもひとつの正しい解釈であろう。そこを理解できないと、この映画はフランスの田舎の美しい背景に咲いたつかのまの悲恋物語の佳作として、やがては記憶のすみに追いやられるだろう。しかし、青年に共鳴できるものにとっては、ラストシーンのかっては上品で清潔だった母子の薄汚れて放心した表情とともに生涯の珠玉の作品になる。
この映画の季節は6月でなければならない。
だから初夏の陽光のなか、苦味と酸味のあるグレープフルーツゼリーの味。
しかし、この3人の方達をもって”美形”とはいわせない。何故ならば、彼らはもう”オジサン”だからだ。美しいという形容詞には含みをもたせた流れるような響きがある。が、”美形”という名詞にははっきりと固定された枠の範疇におさまるべきものがある。つまり賞味期限のアッパーは24歳。
そんないい男先物買いの私の”美形”の定義にあてはなる旬の俳優は、『藍色夏恋』で主演したチャン・シーホウ、そして「ロング・エンゲージメント」に出演しているギャスパー・ウリエル。
ギャスパー君の来日インタビュー
そんなわけでせっかく日本でも認知されつつある彼のカンヌ映画祭で評判をよんだ映画「かげろう」をふりかえりたい。
1940年フランス。初夏の光がこぼれる中、戦火を逃れるために南下する車と人々の行列が続く。その中には夫を亡くした教師である未亡人(男はやもめというが、女性は未亡人だ)オディール(エマニュエル・ベアール)が、13歳の長男フィリップ、7歳の幼い娘カティを必死に守りながら車を運転している姿もあった。そこへ突然のドイツ軍の空爆が襲い、次々と倒れる人々の群れから、17歳の青年イヴァン(ギャスパール・ウリエル)に助けられ森の奥へと逃れていく。やがて辿り着いたのが、疎開して空家になっている音楽家の屋敷。青年と家族はその家で不思議な共同生活をはじめて難を逃れることになる。青年イヴァンの粗野で無教養なふるまいにはじめは目をひそめ、こどもたちに悪影響を与えないよう極力しりぞけていたオディールだったが、やがて戦時下の非常事態に彼のたくましい生活力と汚れのない魂に惹かれていく。
きらめくようなつかの間の光り溢れる平和な日々も、オトナのフランス兵士の訪問によって物語は急展開していく。そして衝撃的な結末に観る者の心はゆさぶられるであろう。
エマニュエル・ベアールのかわらない豊満な美乳に顔をうずめようとしている↑こんなパンフレットに、奥様向けの人妻と若者の不倫ものの昼メロとあなどってはいけなかった。アンドレ・テシネ監督、「ベルリン・天使の詩」の撮影監督アニエス・ゴダール、「太陽と月に背いて」の製作者ジャン・ピエール・ラムゼイ・レヴィという顔ぶれに、この映画の気合いと質の高さに納得。だからフランス映画は病みつきになる。
17歳の青年は、タレントの石田純一のような軽チャーもなければ、韓国ドラマ「美しき日々」の室長のようなお金をかけた愛の演出テクニックも知らない。なぜなら生い立ちと育ちかたゆえに言葉も稚拙で貧困、スマートな人の愛しかたもわからない。それらを学ぶ機会がなかったから。そんな彼にとってたったひとつのかけがえのないつながりを断たれたとき、拒絶されたときの絶望感。それは以前紹介したある精神科医の悔恨が示すように、かくも深いものなのである。
イヴァンの最後にとった行動を私の友人は理解できなかった。それもひとつの正しい解釈であろう。そこを理解できないと、この映画はフランスの田舎の美しい背景に咲いたつかのまの悲恋物語の佳作として、やがては記憶のすみに追いやられるだろう。しかし、青年に共鳴できるものにとっては、ラストシーンのかっては上品で清潔だった母子の薄汚れて放心した表情とともに生涯の珠玉の作品になる。
この映画の季節は6月でなければならない。
だから初夏の陽光のなか、苦味と酸味のあるグレープフルーツゼリーの味。