千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「かげろう」

2005-03-21 11:39:24 | Movie
常に商業ベースとは別の次元で良質の映画を提供している「岩波ホール」の創立者の一人、川喜多かしこさんには生涯”様”をつけて敬う俳優が3人いるという。ジェラール・フィリップ、市川雷蔵、そして日本を韓流ブームで席巻したペ・ヨンジュンだ、いやヨン様である。さすがに成熟して目が肥えてらっしゃる映画人らしい選択であるところに、異論はない。確かに美しい俳優だ。
しかし、この3人の方達をもって”美形”とはいわせない。何故ならば、彼らはもう”オジサン”だからだ。美しいという形容詞には含みをもたせた流れるような響きがある。が、”美形”という名詞にははっきりと固定された枠の範疇におさまるべきものがある。つまり賞味期限のアッパーは24歳。

そんないい男先物買いの私の”美形”の定義にあてはなる旬の俳優は、『藍色夏恋』で主演したチャン・シーホウ、そして「ロング・エンゲージメント」に出演しているギャスパー・ウリエル。

ギャスパー君の来日インタビュー
  
そんなわけでせっかく日本でも認知されつつある彼のカンヌ映画祭で評判をよんだ映画「かげろう」をふりかえりたい。

  

1940年フランス。初夏の光がこぼれる中、戦火を逃れるために南下する車と人々の行列が続く。その中には夫を亡くした教師である未亡人(男はやもめというが、女性は未亡人だ)オディール(エマニュエル・ベアール)が、13歳の長男フィリップ、7歳の幼い娘カティを必死に守りながら車を運転している姿もあった。そこへ突然のドイツ軍の空爆が襲い、次々と倒れる人々の群れから、17歳の青年イヴァン(ギャスパール・ウリエル)に助けられ森の奥へと逃れていく。やがて辿り着いたのが、疎開して空家になっている音楽家の屋敷。青年と家族はその家で不思議な共同生活をはじめて難を逃れることになる。青年イヴァンの粗野で無教養なふるまいにはじめは目をひそめ、こどもたちに悪影響を与えないよう極力しりぞけていたオディールだったが、やがて戦時下の非常事態に彼のたくましい生活力と汚れのない魂に惹かれていく。
きらめくようなつかの間の光り溢れる平和な日々も、オトナのフランス兵士の訪問によって物語は急展開していく。そして衝撃的な結末に観る者の心はゆさぶられるであろう。

エマニュエル・ベアールのかわらない豊満な美乳に顔をうずめようとしている↑こんなパンフレットに、奥様向けの人妻と若者の不倫ものの昼メロとあなどってはいけなかった。アンドレ・テシネ監督、「ベルリン・天使の詩」の撮影監督アニエス・ゴダール、「太陽と月に背いて」の製作者ジャン・ピエール・ラムゼイ・レヴィという顔ぶれに、この映画の気合いと質の高さに納得。だからフランス映画は病みつきになる。

17歳の青年は、タレントの石田純一のような軽チャーもなければ、韓国ドラマ「美しき日々」の室長のようなお金をかけた愛の演出テクニックも知らない。なぜなら生い立ちと育ちかたゆえに言葉も稚拙で貧困、スマートな人の愛しかたもわからない。それらを学ぶ機会がなかったから。そんな彼にとってたったひとつのかけがえのないつながりを断たれたとき、拒絶されたときの絶望感。それは以前紹介したある精神科医の悔恨が示すように、かくも深いものなのである。

イヴァンの最後にとった行動を私の友人は理解できなかった。それもひとつの正しい解釈であろう。そこを理解できないと、この映画はフランスの田舎の美しい背景に咲いたつかのまの悲恋物語の佳作として、やがては記憶のすみに追いやられるだろう。しかし、青年に共鳴できるものにとっては、ラストシーンのかっては上品で清潔だった母子の薄汚れて放心した表情とともに生涯の珠玉の作品になる。

この映画の季節は6月でなければならない。
だから初夏の陽光のなか、苦味と酸味のあるグレープフルーツゼリーの味。

大学管弦楽団卒業記念演奏会

2005-03-20 20:54:57 | Classic
大学時代とは、人生の中で特別な輝きをもつ季節である。そんな感傷は、今を生きるポシティブ派の方には失笑ものなのだろう。けれどもおおかた親の庇護にありながらその干渉からうまいこと逃れ、また社会の厳しい競争と理不屈な論理にさらされていない純で熱い魂をもちえる4年間は人生の贈り物のような時間といったら過言だろうか。

そんな大学生活を勉学のみならず、クラシック音楽の演奏活動に若さか”ばかさ”か?ありあまるエネルギーと”リビドー”をそそいだ、彼らの学生生活をしめくくる卒業演奏会を聴いた。地方とはいえ、海外の一流アーティストの演奏会もあるコンサート専用ホールを使い、ベテランの域に達するプロの指揮者をお招きした演奏会なのに、無料である。そこにこの演奏会の目的をみる。今まで応援してくれた友人、仲間、そして不良債権(扶養家族であるこども)をきれずに、経済的な援助(学費&仕送り)をしてきたスポンサーである親への感謝の気持ちをこめた演奏会のつもりなのだろう。

特筆すべきは2曲め「オーボエと弦楽合奏のための協奏曲」でソロを吹いたT君の演奏である。彼の演奏は入学したときからぬきんでていた。そのため定演以外の演奏会ですでに協奏曲のソロをつとめたことがある。オーボエという楽器のもつ特性ゆえか、彼の演奏を聴いていると、弦楽器奏者にみる音楽と対峙してひとつひとつの音をつくりあげていくというスタイルとは別の、まるで自分の中にある”音楽”にただ翼をつけて空間に飛ばしているという自由な印象をもつ。きちんとプロの方のレッスンを継続して受けているという音づくりではないが、音楽性を生まれながらにしてもっているという幸福な人を見るのは嬉しいものである。そんな宝をもちつつも、彼はオーボエよりもピアノが好き、更に地理が大好きだと聞く。記号と線の地図から、彼には旋律が見えるのだろうか。
ただ協奏曲をもっとほりさげたうえでの演奏ではなくバランス性に欠けていたのは、自己流のアマチュアレベルとしてはしかたがないが、T君の演奏がよかっただけに残念である。

最後のメイン曲、指揮者小田野宏之氏が振ったチャイコフスキーの交響曲第3番「ポーランド」

この大学オケのよくも悪くも、元気よくフレッシュでノリの良い、まあいつもの泥臭い演奏ではあるが、日頃の演奏にはないひとつひとつ丁寧に音をつくっている印象があった。卒業と同時に様々な別れを惜しむ感情が表れているのだろうか。この一瞬は永遠にかえらない。だからこそ、音楽は美しいのである。
大学生活最後のコンサートミストレスをつとめたまめ吉は、大学院受験の面接の時、教官から「君は随分成績が悪いんだね。」と驚かれた噴飯モノのエピソードに、指揮者の方から渡された春らしい花束で答えるつもりか。その花束は雄弁に君の4年間を物語っている。

-------------2005年3月18日ノバホールにて、指揮:小田野宏之(チャイコフスキーのみ)------
1.Three More Cats(もう三匹の猫) Chris Hazell

2.オーボエと弦楽合奏のための協奏曲 Ralph Vaughan Williams

3.弦楽六重奏曲第1番 変ロ長調 Op。18より第1楽章

4.交響曲第3番二長調OP29「ポーランド」 Peter Ilyich Tchaikovsky

検察審査会レポート5

2005-03-19 17:29:16 | Nonsense
検察審査員としてはじめて関わった議決に関する記事が、新聞の地方版に掲載された。これは不起訴不当という議決を行った案件であり、調書の作成段階で問題があったのではないかという指摘も含めている。

実際に不起訴不当という議決をするのは全体の2割から3割である。また、その中から検察側が再度不起訴にすることもあるのだが、検察側としては、検察審査会から不起訴不当という議決をされたら全力を挙げて再調査するという意見を聞いた。その姿勢に司法の世界に住む方達の”正義”を信じたい。
又、たとえ不起訴相当という議決をした議号案の中にも、我々の検察への苦言、警察の捜査のあり方に対する疑問点や問題点を投げかける機会にもなる。確かに微力ながら検察審査会の存在意義と役割の重責を実感つつある。

そんなさなか、3号目にあたる議決を行った。この案件の申立人に関しては、職業上からくる社会通念に欠けている権威主義的で独断的な人物像を感じる。こういう方に関わって、真面目に生きてきた方が身に覚えのないぬれぎぬを負わされたらたまらない。被疑者に同情が集まるのもやむをえない。
世の中には、いろいろな方がいるのである。

余談だが、エレベーターのところでまた髪を振り乱した裁判員に遭遇した。10時開廷でまだまだ時間に余裕があるのに、なにをそんなに急いでいるのか。

夜は元の職場の方の退職送別会に出席。久しぶりにかっての仲間の元気な顔に再会。彼は今後業態は違うがベンチャー企業の運用部門へ転職する予定。日本の金融系の古い体質の会社では少ない、考え方が実に合理的な仕事ぶりに学ぶことも多かった。仕事師として魅力的な男だった彼の挨拶を聞いて、やっぱり人間としても魅力的な男だよとつぶやいた。きっと新しい職場でも能力を充分に発揮するであろう。

狭山事件

2005-03-18 00:01:11 | Nonsense
「狭山事件」第2次再審請求、最高裁も棄却 (読売新聞) - goo ニュース

ニュース報道で「狭山事件」と聞き驚いた。だいぶ以前野間宏著「狭山裁判」を読んでいるはずなのに、事件の概要がきれいに消えてしまっているくらい遠い遠い事件なのだ。しかも「帝銀事件」「下山総裁謀殺」に並び戦後の深い闇に今も尚閉ざされている事件だ。つまり真相は時間の経過とともに遠ざかっている。

1963年5月事件発生、女子高校生誘拐殺害。石川被告逮捕。
翌年3月第一審死刑判決。石川さん無罪を訴える。
1974年第二審無期懲役判決。
1977年再審請求。1986年第二次再審請求。

事件発生から42年の歳月が流れているのである。
しかも今もなお、差別による冤罪ではないかという疑念が強く残る事件である。

この事件に関しては、有識者による意見、評論や著書によって語り尽くされているかんがある。また様々な団体による支援活動が根強く続いており、こういう問題に対する充分な知識も関心ももちあわせていない私がものをいうべきではない。
けれども、一つだけ気になることがある。冤罪か、それとも裁判でいう合理性にかなった理由から逮捕された石川さんが犯人なのか。本来の真実の追及をして遺族への慰謝をするという警察と司法の意義から、主流が差別問題へと流れていると感じている。そこにこの事件の深い問題と複雑さ、世間の耳目を集める関心の高さに、今日なおも考えるべき要素はある。
だが、1963年、罪のない一人の女子高校生が無残な殺され方をしたのである。彼女の人生はそこで突然終わってしまったのである。その事実にこそ、一番に目を向けるべきではないだろうか。



アフリカの遠い夜明け

2005-03-15 23:47:00 | Nonsense
残酷な数字を並べてみる。

現在サブラハラ・アフリカで毎日マラリアで亡くなる子どもが3000人、エイズでなくなるオトナが6000人。一日1ドル以下で生活する人は3億人。
それが、アパルトヘイト解放されたといわれているアフリカの現実なのである。

同じ地球の中で繁栄する国がある一方、このように永年差別と貧窮に苦しむ地域に何故分かれるのか。
アフリカ自身にも問題がある。白人有産階級並ぶ黒人指導者たちも所詮縁故人事による既得権からなる腐敗、恐ろしいまでの部族間抗争や圧制。これらは長い間いつまでも解放されない因果ともいえる。またライフラインにも不安があり、義務教育さえも満足におえていない者が多いという教育レベルによる労働の質の低さ、そんな事情にもかの国に投資資金は流れないのである。誰だって不衛生でネットも繋がらないような国には赴任したくない。同じ時間で人を使うなら生産性の高い労働者がいいにきまっている。貧困と無教育は影のように寄り添うものだ。

しかし、日本を含めて先進諸国に罪はないか。確かに低い賃金の労働者をつかえる国が輸出産業には有利だったが、かってのアフリカでの花形農産物は欧米自身が努力によって自国で大量生産ができるようになった。そのために市場から締め出された。鉱物はしたたかな買い手によって市場でたたかれ、価格が一気に下落。いまどきのビジネス雑誌を飾る勢いのよいグローバル化、自由市場主義経済は、結局こんな弱者をあらたな奴隷にしているのかもしれない。

それでもかすかな望みはある。今年の英国スコットランドで開かれるG8サミットでは、最大の課題をアフリカを救済することと位置づけている。しかし金を出せばよいという問題ではない。募金団体に寄付すれば良心が満足できるのか。捨てる服や不要になったモノを送ることでもない。
自力でこの国が立ち上がるのを支援することだ。そしてヨーコ・オノさんが学校を作っているように、せめて義務教育だけでもすべての人が受けられるようにすることだ。そこに同じ人間としての誇りが問われる。

*参考文献「アフリカの瞳」帚木蓬生著

マイノリティ派宣言 -ブログの時代

2005-03-14 23:12:38 | Weblog
先週の「週刊文春」で真鍋かおりさんやヤクルト球団、古田選手らの人気ブログの記事が掲載されていた。ブログをやるのは自己顕示欲というのが文春の分析。

何故、自分はブログをはじめたのだろう。以前の自分の性格から考えたらありえなかったことだ。ブログを書いて公開するということは、自らの心のストリップに近いものがある。そんなことは考えるだけでもおぞましいという感覚からの不特定多数への”仮面の告白”というこの跳躍は?

職場環境が変わったこともあるかもしれない。以前は、仕事がら手のあいた時は「週刊ダイヤモンド」「週刊東洋経済」「エコノミスト」「選択」という雑誌を読むことで経済や時勢の情報収集ができた。また男性社会だったために、その手の会話もできた。ところが、今は仕事も含めて諸々が180度かわり、職場は殆ど花盛り?の女性ばかり。政治や経済の話なんぞしたら浮いてしまうぞ。そんなわけでブログでささやかな知識ながらも、文章をおこすことによって世の中の流れを感じていたい、朝から夜まで時間に追われる日常で自分を見つめ、自分と向き合う時間をつくるためにものを書いていこうというのが確信犯の動機だ。

それから、先日の検察審査会の親睦会で現審査委員長に、初回の「裁判員制度に反対の立場をとるもの」という自己紹介から私のような女性は100人に一人もいないだろうと声をかけられた。言葉は悪いが論理的な思考ができそうだからできない男よりもよっぽど役にたつというのが一応の真意らしいのだが。そういう発想そのものにちょっと男女差別の意識が含まれているのは充分自覚されているので、その点については言及せずに「ただの変人なんですよっ」と笑い飛ばした。
考えてみると、だいたいこどもの頃から自分はマイノリティ派だった。(天邪鬼ともいえるかもしれないが)クラシック音楽が好きだという趣味じたい、もはや絶滅種に近い。けれども、gooだけでも154453の膨大なブログの群れから、興味のあるテーマーや共通の話題を検索していくと共感できるブログにお目にかかれるのが予想外の発見だ。しかも読んでいておもしろかったり、内容も素晴らしいブログに出会うことによって、ブログをはじめてよかったと思える。

TOPのブックマークには、あまりにも素適なブログが多いということと、どれもこれもその方の精一杯な気持ちが伝わる文章から選択できないというので個人のブログはのせないことにしている。そんな私が定期的に訪問したいブログのブックマークを覚書のように下記に掲載しておこう。但し、TBの多い訪問者が多そうなブログを除外して定期的に更新されているブログを今回はピックアップ。ここには載せなかったけれど今後照会したいブログ多し。順次増やす予定。

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ksakai


  まめ吉のサークルの先輩。発生学の卒業研究でどうしても子を孕んだ母マウスを殺せなくて独逸美学に*コペ転をした方。今は音楽理論を研究しているらしい。最近講義デビューをされた。

言語生活
  難しい哲学もこの方の文書を読むと優しさが伝わる。それからブログをはじめたきっかけの文章が好きだ。

夜半の眺め

  上記のgazzelleさんのブックマークから発見。作曲の方はご専門なので理論を興味深く読むだけなのだが、三島由紀夫とマルクス、ニーチェを同時に語る1982年生まれには驚きもん!プロのクラシック音楽家のブログはあるが、こういうブログはめったにない貴重品。

いはもとの宇宙を語ろう

  宇宙開発推進派の私としては応援したいいはもとさんのブログ。癒し系の広報活動をされているらしいが、そのお人柄を納得するブログ。

誰もが十字架を背負っている

  Gacktのファンサイトで出会ったblueさまのブログ。宇宙開発も家計を預かる主婦感覚で語るGacktのママみたいな方だが、時々鋭い斬り方をやってしまう方でもある。特に男性にお薦めのブログ。


映画侍さんのブログ(近日中にアップ予定)

「中年金融マン」

 市場外騒動が起こるたびに訪問するぐっちさんのブログ。マネーの大波小波を乗りこなしつつ、3歳からピアノを弾いている意外と純情なクラシック音楽ファンでもある。

ETUED

誠実なお人柄がにじみでているromaniさまのブログは、安息の場。幅広くクラシック音楽を聴かれてきた氏の記事は、とかく専門的になりやすい批評と異なるあたたみがある。

物語三昧

笑えるけれど知性があり、わかりやすい言葉の中に本質をついている、少女漫画から評論までその攻撃範囲は広く圧倒される。中でも「病めるアメリカ」のカテゴリーは、できれば本を一冊上梓する勢いの期待度大。ついでに勝手な注文ですが、ジャンル別ランキングは19位/2762人中。大衆受けねらいの1位でなく、このあたりをキープしていただきたいものです。




*コペ転の意味がわからない方コメントをお寄せください。

勘弁してくれっ、サマータイム導入

2005-03-13 18:44:17 | Nonsense
いぎたなくカラダが寝坊を命令(と私は思うのだが)する日々がやってきた。春とともに日も長くなった。
そんな私に人は言う。
「早起きは三文の得」
でも私には早起きしてもたいしたお得はないという格言だ。三文判というではないか。だから早起きに価値はなし。
サマータイム導入の掛け声がちらほらと聞こえる季節がやってくる。

勘弁してくれーーーっ!
ディベートのテーマーになるくらいだから、賛否両論あるのだろうが私は断固として反対だ。
実は陪審員制度もそうだが、戦後日本でもサマータイムが導入されていた時期もあった。1948年当時の連合国軍総司令部(GHQ)のご指示のもとに、燃料節約を目的に実施していたのだが、朝鮮特需の好景気のおかげでかえって労働時間が長くなり、不評のうちに幸い4年間で終了した。

それから半世紀、この日本でも地球と我が国の諸々の事情によりサマータイムが実施されそうな気配なのだ。

【賛成派】

1.地球にやさしくしよう
省エネ・温室効果ガスの削減により、地球から環境汚染・温暖化への効果がある。省エネ効果は50万kl(日本の全世帯の一か月分)、二酸化炭素削減効果は44万キロ。

2.経済効果
得られる一時間の日照の明るさを余暇や趣味の活動・買い物、または家族サービスに振り返ることによって、不景気な世の中に内需拡大を掘り起こすことができる。その経済効果は推定6000億円。

3.早く眠ることによる交通事故の現象
1万件減少するらしい。

【絶対反対】
1.地球も大事だが、自分にもやさしくしたい
そもそも人間本来の体内時計は25時間なのである。それを地球にあわせて”無理して””自分をおさえて”一時間調節してやっているのである。ここでまた一時間も、地球のために体内リズムをあわせるのは、結婚してパートナーの生活にあわせるのと同じくらいつらいものがある。勘弁してくれっ。

2.本当に経済効果があるのか
確かに生産効果はあるかもしれない。しかし実際労働者は仕事をおえた後に、娯楽への旅路へとお金を落としながらるんるんできるのか。残業時間も一日、週、月単位で上限を決められていて、申告できないサービス残業をこなすサラリーマンだって多いはずだ。そんな日常がサマータイム導入によって、娯楽時間の増加へ振り変わるとは思えない。だいたいサマータイムが導入されたら、サントリーホールでのコンサートにビジネスマンは開演前にこれるのかっ。それが外国では成功している制度でも、日本にはなじまないこの国の労働環境だ。大いに疑問だ。スポーツするくらいなら早めに帰宅して明日への仕事のために体を休めるか、夜の街でフィーバーするくらいなら生き残るために自己研鑽への読書にあてた方が有効ではないか。
外が明るければそれに伴い、飲食・サービス業の営業時間が延びて従業員の労働時間は増えるだろう。

3.時計を変更するのは大変
コンピューターで管理されている交通の運行計画、国際航空路線調節の混乱への懸念、その他システム管理へのメンテの費用は1000億円。

札幌市地域振興会ではサマータイム導入に対して鼻息荒いが、ここは譲れない。だってなんといっても私の哲学は

「人生は夜からはじまる」

「ロング・エンゲージメント」

2005-03-12 21:59:15 | Movie
「彼になにかあれば、私にはわかるはず」という不思議な“直感”を信じ、戦死したと伝えられた婚約者マネクを探す20歳のマチルド。私立探偵を雇い、顧問弁護士の協力をえて、少しずつ真相に近づくそのたびに彼の生存は絶望的になるのに、不自由な脚をひきずりながらマネクへの道のりをひたすら歩く旅。



「アメリ」の監督ジャン=ピエール・ジュネが再びオドレイ・トトゥを主人公に迎え、ベストセラー小説『長い日曜日』(Sebastien Japrisot)を映画化したフランスでも多くの観客動員数を誇る話題作である。春の訪れとともにロードショー初日、初回に足を運ぶのは気分がいいものである。いつものとおり開演ぎりぎりに飛び込み、混んでいたらどうしようという心配がひょうしぬけするくらい場内はがらがらだった。考えてみると「アメリ」は大ヒットしたが、もともとは幅広い年齢の大衆向け百貨店というよりも、裏原系のブティック向けの既存のものにあきたらないちょっと小技のきいた趣味的な作品だ。「ロング・エンゲージメント」も銀座の大きな映画館よりも渋谷の単館にふさわしいともいえる。

時は第一次世界大戦、幼なじみで友人で、恋人でもある婚約者マネクは戦場へ旅立った。映画の冒頭は、激しい驟雨の中のリアルな戦場を舞台に、軍法会議によって死刑に処せられる兵士の素顔を紹介していく。5人目のひときわ若い兵士、それがマネクだったのだ。彼は、初めて抱いた時のマチルダの胸の鼓動を刻んでいる手に向けて、自ら銃を放つことによって負傷して戦争を回避しようとするのだが、無情な大佐によって死刑を宣告され「ビンゴ」と呼ばれる独逸と仏蘭西の中間地点の戦場に向かっているのだ。まるで地獄のようなこの地で5人の兵士たちは、武器ももたず雨のような爆弾や銃をあびて次々と倒れていく。

二人の秘密の暗号、海辺の荒れる風と灯台、小さなユーモラスとグロテスク、ジャン=ピエール・ジュネ監督が好きな方には最後の結末まで含めて期待は裏切られないだろう。
そしてここまでリアルに描く必要があるのかと疑問さえもってしまう残酷な戦場の映像と一転して、マチルダが一心にマネクを思いながら探す場面はこの監督独特のセピア色の映像美に包まれている。戦争の残酷さと平和な海辺の養父母とのマチルダの暮らし。その対比をかたやリアルな音とともに灰色に、他方では緻密な小道具を配置した懐かしい完璧な様式美に描いたこの監督に、いまどきのフランス映画のエッセンスをきく。
ジュディ・フォースターが脇役を演じているのだが、驚くほど存在感があった。こんな女優に成長していたのだと改めて思った次第である。
それにしてもマチルド役を演じたオドレイ・トトゥをジュリエット・ビノシュに似ていると感じているのは私だけだろうか。フランス人はこういう雰囲気の女優が好きなのだろうが、どうみても20歳には見えないのが惜しい。むしろマネクを演じたギャスパール・ウリエルが実に役柄にぴったりだった。 「かげろう」で演じた青年といい、こういう無垢な若者は今は彼以外に考えられない。「歩くと脚が痛いの?」こういうセリフがいえるのは彼だけだ。

オトナの自覚がある方にはお薦め。無花果を食した気分かも。

二人が初めての夜をともに過ごすときのマッチを一本ずつ擦る場面だけで、映画のチケット代に値する。

陪審員コンサルタントってなに?

2005-03-11 23:08:03 | Nonsense
都会の若者をターゲットにしたR25というフリーペーパーがある。
「オトコを刺激する情報マガジン」というキャッチコピーだが、実はオンナもけっこう刺激される便利な情報マガジンだ。何しろコラムリストの文章が軽妙でセンスが心地良い。

さて今週号に、以前から興味があった「陪審員コンサルタント」のコラムが掲載されていた。

そもそも陪審員コンサルタントって何者?

その実態をハリウッド的な極上サスペンスにつくりあげたのが、ゲイリー・フレダー監督(原作:ジョン・グリシャム)の映画「ニューオーリンズ・トライアル」 である。

証券会社をリストラされた元社員の男が銃をもって会社に乗り込み、乱射して11人の貴い命を奪う。その後、事件によって夫を亡くしたセレステは、使用された銃のメーカーを相手に民事訴訟を起こす。だって被疑者は亡くなっているし、企業を相手に訴訟を起こした方が莫大な補償金をゲットできる。いかにもアメリカ的な話の流れだが、裁判の対立が原告側の弁護士ローア(ダフティ・ホフマン)と被告側の陪審員コンサルタントのフィンチ(ジーン・ハックマン)の対立の構図のようにみえて、実は陪審員に選ばれた謎の青年ニック(ジョン・キューザック)の存在理由が最後に明らかになることによって、驚きの本当の対立構図と勝敗、それによって陪審員制度のあり方にも問題を投げかけている。

陪審員はまず選挙名簿から抽選で数十人の候補者が選ばれ、招集状にしたがって裁判所に出頭する。そこから原告・被告のそれぞれの弁護士が面接をして、人種・趣味嗜好・思想や言動を知ることによって自分たちに有利に傾きそうな12人陪審員を選んでいく。そこで登場するのが職業として陪審員選定を行う陪審員コンサルタントなのである。彼らを雇って選定を任せるのか、自前で行うのか自由ではあるが、映画の中でウィンチひきいるコンサルタント集団が陪審員候補者を組織的に、しかもあらゆる角度から分析して選定するプロセスに驚いた。しかしこれはハリウッドで通じる架空のエンターティメントではなく現実のことである。

彼らは裁判の前に一般人を収集して、模擬裁判を行いあらかじめシュミレーションをして、自分たちに有利なタイプの人物像をしぼる。そこから質問状を作成して、候補者の回答をえて、専門的知識を駆使して有利にころびそうな陪審員を選んでいく、仕事師の技なのである。その数全米で350万人、報酬は一日4000ドル。まさに人を使った検察と弁護士たちの戦略的ゲーム。
とはいうものの、日本では裁判員制度がはじまってもこのような職業は繁盛しないだろう。やはり人種・宗教が複雑に入り組んでいて、それが判決に影響する米国ならではの商売ではなかろうか。

裁判って、本当にそれでよいのだろうか。
結局、高額な報酬でやり手の陪審員コンサルタントを雇ったOJシンプソンのようなお金持が有利になり、法のもとに平等・公平性の精神に欠けるのではないだろうか。

検察審査会レポート4

2005-03-10 23:07:58 | Nonsense
昨日は検察審査会に稼働日だったので、地方裁判所に出頭した。

出席証明書と引き換えにわずかな(とほほ・・)日当と交通費実費を受け取るための請求書に、シャチハタ以外の印鑑を押印しなければならない。
が!忘れてしまった。それでは後日に・・・という事務局の応えを淡く期待したが、やはりだめであった。左手の人差し指で拇印を押した。初めてのことでもありどの指かわからなかったが、確かに拇印、お母さん指を使うのだ、恥かしい。

先日、不起訴不当という決議をして検察に差し戻しした案件が、新聞の地方版に記事として掲載されていたらしい。更にその後の結果に関しては、新聞記事などを添えられて決議に関わった審査員全員に連絡をしてくれるとのこと。つまり東京第2検査審査会の審査員には、不起訴不当とした「橋本元首相の会計責任者選任過失容疑」、改めて不起訴というような記事が送られてくるのだろう。

しかし、実際昨日より3つ目の議号案に着手したが、法律の素人集団とはいえ、誰もが安易に議決することはありえないというのが実感である。我々の議決によって当事者たちの人生も変わるという重さと、判断するにあたり、被疑者・被害者ともに判断基準に関与する部分に関しては、かなりのプライバシーを知らざるをえないこともあるという事実に真摯な気持ちが自然とわいてくるものである。そして決議に関しては、私の想像以上に審査員その人の人生、価値観、性格が反映している。(したがってそういう意味では、4年後の裁判員制度の導入の意義も理解はできるのだが。)決議が当然わかれることもあるのだが、議決に関しては自信をもって決めている。特にこのような事件ではおそらく東京第2検察審査会では、殆どのものが不起訴不当としてのではないかと思う。それだけに、改めて嫌疑不充分に終わったのは残念なことだ。

次にちょっと勉強したことだが、刑事訴訟法第256条
①控訴の提起は、起訴状を提出してこれをしなければならない。
②起訴状には、左の事項を記載しなければならない。
一 被告人の氏名その他被告人を特定するに足りる事項
二 公訴事実
三 罪名

つまり、誰が、どんな犯罪を犯して、被告人の罪はどの法律のどの条文に違反するのか明確にしなければならない。またAという罪で認められないならB、というように複数の罪名を挙げることができる(裁判の合理化)が、裁判が終了して次にCという罪名をあげる場合は、またいちからやりなおさなければならない。(被告人の安定性)

毎回、毎回いろいろなことを学ぶ審査会でもある。
終了後に、某所で親睦会を行った。沢田研二の歌を桃色に変換してカラオケやで熱唱したMさん、国民の民意ってそういうことなのかも。おそらく検察官はあなたのような、健康的なエロ気はないだろう。