「はじめての性交渉はいつか」「婚前交渉の有無」「性交渉の回数」・・・LET'S TALK ABOUT SEX.
こんな個人の最もプライベートに関わるアンケートを1940年代~50年代にかけて、まだ女性解放も性の解放もされていなく公民権運動や宗教による差別すらあった保守的なアメリカで、351の質問を用意して面談方式のアンケートをとった研究者がいる。それが、インディアナ大学助教授で動物行動学の助教授だったアルフレッド・キンゼイ(Alfred C Kinsey 1884-1957)だった。タマバチの生態を研究した時、見た目のカタチは同じでもどれひとつ同じ個体はないという生物の多様性に注目する。私生活ではこの堅物教師も賢い女子学生と結婚したのだが、新婚初夜に失敗して医師を訪ねてなんとかコトを成就するにあたり、人の性もこのように万華鏡のようなバラエティーに富んでいるのではないか、と考え始める。(以下、かなり映画の内容にふれております。)
その後、彼のはじめた結婚相談もどき窓口はまたたくまに行列のできる相談所になり、性教育講座は大盛況。財閥からの支援もとりつけ、3万の昆虫の標本のコレクターで発揮した粘着質の研究肌と収集癖をフルにつかって、3人の助手と全米を旅して集めたデーターがなんと18000人!映画の冒頭で、アンケートの方法を自ら回答者になって赤裸々に自分の性体験を告白しながら、助手に質問のしかたをレクチャーするはじまりは、実にさえている。ハジマリで観客をうならせて興味をひきつける技は、研究発表や音楽の演奏と同じ、映画でも大事だ。
1948年男性版、53年には女性版のレポートを発表したのだが、当時のアメリカでは道徳で封じ込めていた”性”のパンドラの箱をあけてしまう爆弾になってしまったのだ。
それは何故か、性科学のレポートの内容は、同性愛を犯罪者扱いする国家や社会、自慰を罪悪とする宗教や父、こうした存在の権威や常識を壊すくらいの赤裸々だが真実の告白だったのだ。一夜にしてキンゼイ・チームは、時の人となり時代の寵児になるが、やがて様々な困難が待ち受けていた。。。
いつもながら暇のある女性向けの「愛についてのキンゼイ・レポート」(原題:Kinsey)とという配給側の意図が見える邦題とポスター(↑にはったポスターではないDVD版の方)は、この映画の監督と製作側の意図とはかけ離れている。私も「物語三昧」のペトロニウスさまが、「病めるアメリカ社会をみる」のカテゴリーでこの映画をとりあげていなかったら観ることはなかっただろう。
映画のみどころは、ふたつ。
まず生き物としてのホモサピエンス・ヒト科の性行動だ。当り前のことだが、18000人いたらその人の人生の数と同じだけのセックス・ライフがある。今日では、しごく当然の社会的コンセンサスも、禁欲的で保守的だった当時では充分にセンセーショナルに値する。私もこの調査で判明した潜在的な同性愛者の数には驚いた。これを示唆する場面が、キンゼイ(リーアム・ニーソン)が助手のマーティン(ピーター・サースガード)の案内でシカゴの同棲愛者の魔窟であるバーにのりくんだ夜だ。ここで多くは語れないが、ひとりのゲイの告白と彼の話を聞いた後、最後に彼にかける言葉とともにこの夜の結末は重要だ。物議をかもす場面の連続で、ここは監督の映画にかける真意が伝わる。
そしてここからもうひとつのみどころが始まる。最初は純粋に科学者としての好奇心と追及心でスタートしたヒトの性も、動物の交尾ほどは単純ではない。人間は社会的な動物だ。性への自由は、キンゼイにとってはある意味不幸である厳格な父からの解放でもあり、反発でもあり、アイデンティティの確立でもあった。しかし自由な性と性道徳の狭間で悩むようになる。そこでであったのが、怪物のような性豪の男だ。9000人の男女との交渉を自慢する中年の男。こんな男の出現には、キンゼイ・チームも精神的においつめられる。ここで科学者としてでなく、ひとりの人間として彼にたちむかうキンゼイの言葉がいきてくる。それはまた更に、夫を理解し愛情をそそいだ妻の大きな存在につながっていく。
科学としてのキンゼイ・レポートも、そこからはじまる性の文化も道徳も、現在混沌とした中にあるのだろうか。中絶や同性愛の是非が、米国大統領選挙の争点にもなるのが現在の米国。ひとりの科学者と夫婦愛として観たら、この映画はそれほどおもしろくない。
視点をかえて観たら、★★★★★。それに18禁映画の醍醐味もある。(←実写シーンという意味ではなくて)
くれぐれもエンドロールが出たらといって、すぐにDVDをOFFにしないように。監督:ビル・コンドン
こんな個人の最もプライベートに関わるアンケートを1940年代~50年代にかけて、まだ女性解放も性の解放もされていなく公民権運動や宗教による差別すらあった保守的なアメリカで、351の質問を用意して面談方式のアンケートをとった研究者がいる。それが、インディアナ大学助教授で動物行動学の助教授だったアルフレッド・キンゼイ(Alfred C Kinsey 1884-1957)だった。タマバチの生態を研究した時、見た目のカタチは同じでもどれひとつ同じ個体はないという生物の多様性に注目する。私生活ではこの堅物教師も賢い女子学生と結婚したのだが、新婚初夜に失敗して医師を訪ねてなんとかコトを成就するにあたり、人の性もこのように万華鏡のようなバラエティーに富んでいるのではないか、と考え始める。(以下、かなり映画の内容にふれております。)
その後、彼のはじめた結婚相談もどき窓口はまたたくまに行列のできる相談所になり、性教育講座は大盛況。財閥からの支援もとりつけ、3万の昆虫の標本のコレクターで発揮した粘着質の研究肌と収集癖をフルにつかって、3人の助手と全米を旅して集めたデーターがなんと18000人!映画の冒頭で、アンケートの方法を自ら回答者になって赤裸々に自分の性体験を告白しながら、助手に質問のしかたをレクチャーするはじまりは、実にさえている。ハジマリで観客をうならせて興味をひきつける技は、研究発表や音楽の演奏と同じ、映画でも大事だ。
1948年男性版、53年には女性版のレポートを発表したのだが、当時のアメリカでは道徳で封じ込めていた”性”のパンドラの箱をあけてしまう爆弾になってしまったのだ。
それは何故か、性科学のレポートの内容は、同性愛を犯罪者扱いする国家や社会、自慰を罪悪とする宗教や父、こうした存在の権威や常識を壊すくらいの赤裸々だが真実の告白だったのだ。一夜にしてキンゼイ・チームは、時の人となり時代の寵児になるが、やがて様々な困難が待ち受けていた。。。
いつもながら暇のある女性向けの「愛についてのキンゼイ・レポート」(原題:Kinsey)とという配給側の意図が見える邦題とポスター(↑にはったポスターではないDVD版の方)は、この映画の監督と製作側の意図とはかけ離れている。私も「物語三昧」のペトロニウスさまが、「病めるアメリカ社会をみる」のカテゴリーでこの映画をとりあげていなかったら観ることはなかっただろう。
映画のみどころは、ふたつ。
まず生き物としてのホモサピエンス・ヒト科の性行動だ。当り前のことだが、18000人いたらその人の人生の数と同じだけのセックス・ライフがある。今日では、しごく当然の社会的コンセンサスも、禁欲的で保守的だった当時では充分にセンセーショナルに値する。私もこの調査で判明した潜在的な同性愛者の数には驚いた。これを示唆する場面が、キンゼイ(リーアム・ニーソン)が助手のマーティン(ピーター・サースガード)の案内でシカゴの同棲愛者の魔窟であるバーにのりくんだ夜だ。ここで多くは語れないが、ひとりのゲイの告白と彼の話を聞いた後、最後に彼にかける言葉とともにこの夜の結末は重要だ。物議をかもす場面の連続で、ここは監督の映画にかける真意が伝わる。
そしてここからもうひとつのみどころが始まる。最初は純粋に科学者としての好奇心と追及心でスタートしたヒトの性も、動物の交尾ほどは単純ではない。人間は社会的な動物だ。性への自由は、キンゼイにとってはある意味不幸である厳格な父からの解放でもあり、反発でもあり、アイデンティティの確立でもあった。しかし自由な性と性道徳の狭間で悩むようになる。そこでであったのが、怪物のような性豪の男だ。9000人の男女との交渉を自慢する中年の男。こんな男の出現には、キンゼイ・チームも精神的においつめられる。ここで科学者としてでなく、ひとりの人間として彼にたちむかうキンゼイの言葉がいきてくる。それはまた更に、夫を理解し愛情をそそいだ妻の大きな存在につながっていく。
科学としてのキンゼイ・レポートも、そこからはじまる性の文化も道徳も、現在混沌とした中にあるのだろうか。中絶や同性愛の是非が、米国大統領選挙の争点にもなるのが現在の米国。ひとりの科学者と夫婦愛として観たら、この映画はそれほどおもしろくない。
視点をかえて観たら、★★★★★。それに18禁映画の醍醐味もある。(←実写シーンという意味ではなくて)
くれぐれもエンドロールが出たらといって、すぐにDVDをOFFにしないように。監督:ビル・コンドン
>性交は健康の証明
なにをもってして健康、健全と言えるか私にはわかりませんが、ポルノ映画館で性欲を解消するのも痛ましい気がしますね。これ以上、コメントできず・・・。ごめんなさい。。。
・・・ドキッ!別な意味で、見ちゃいました!
>ちゃんと記事を書いていなかったので
私も読んでいたような気がしたのですが、鈴木透さんの著書の紹介で映画をリンクしていました。
米国の矛盾と極端なところを考えるに、この映画はテキストになると思いますね。「ブロークバックバック・マウンテン」などとともに。
キンゼイ氏自身の生涯には、なんの興味もないですが、動物の行動として考えると性の深遠も感じます。男性の同性愛者が予想以上に多かったのも意外な驚きでした。
>Hの時の目隠しプレイ
先日の二期会週間のコンサートで歌手の太田さんが江口さんに目隠しをする時に、ドキドキすると言っていた意味が判りました。