千の天使がバスケットボールする

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ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場オペラ「フィガロの結婚」

2006-12-02 23:03:43 | Classic
フィガロが現代ニッポンのサラリーマンだったらどうであろうか。
そんな愉快な企画が、先日の二期会週間コンサート「日賀野の結婚」。この演奏会は観ていないが、アルマヴィーヴァ伯爵は、さしずめ日賀野に対して絶対権力をもつ役員ということになるだろうか。近頃は部下による上司の評価アンケートもあるので、昔のような完全なる主従関係はなくなりつつある。そうは言っても、無理難題を言ってくる女好きの上司を相手にうまく立ち回り、下克上のごとく権力者を逆に手中におさめる大技ができたら拍手喝采。日賀野氏のウィットに富んだ背負い投げが、このオペラの現代社会にも通じるおもしろさでもある。
また伯爵は、虎視眈々と部下の新妻になるスザンナの初夜を狙って、妻に隠れて自分の権力と財力にものを言わせて立ち回るが、妻にはその愚かな行為はばればれ。にも関わらず、妻である伯爵夫人と小姓の美少年ケルビーノとの浮気を疑い、嫉妬心で激情して剣までもちだす始末。オペラのこの場面にはこの時代の権力者としての男性と妻として従う女性像がみえてくる。しかし、一見服従しているようにみえてたくましいのが妻であり女であるのはモーツァルトの時代も平成ニッポンのオンナたちも同じである。
スザンナと伯爵夫人が結託して、領主、夫である伯爵を翻弄させ、最後にまるでこどもを相手にするかのように反省させ改心させるハッピー・エンドが、「フィガロの結婚」の現代人の疲れた心を癒すのだろう。

4回めの来日だという「ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場オペラ」は、ポーランド国内の音楽家や研究家の集まりである「国立フィルハーモニー」(音楽協会)を出身母体とする。現在の芸術監督であるストコフスキが中心となり、古楽アンサンブルが古典オペラの「研究と実践」をはじめ、今日ではこの歌劇場オペラは単なる実践の場の域をこえ、研究機関としての役割をも果たしているという。世界で唯一、モーツァルトの全オペラ作品を常時上映できる歌劇場は、人気急上昇。
今回3階席の最前列中央。舞台から遠いのが残念だが、この席でオペラの引越し公演のチケット代が9000円は安いと思う。西欧の社交場のような歌劇団と離れて、映画「アマデウス」にあったように、宮廷音楽から庶民対象のオペラを作曲したモーツァルトの行動を考えると、ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場オペラはねらい目ではないだろうか。オペラに期待する非日常のゴージャスさには欠けるが、オペラ本来の人間という存在の愚かなおもしろさを称えようという演出は、モーツァルトの軽やかな音楽とあいまって、観客を充分楽しませてくれる。

私は「フィガロの結婚」の主役は、タイトルのフォガロでもなく、注目を集める婚約者のスザンナでもないと考えている。
このオペラの本当の主役は、伯爵夫人である。オンナ好きでちょいエロ親父の夫に献身しているのに、若い女中にモーションをかけているのを知った時の妻として女としての絶望。

「なんて卑しい状態に私は追い込まれたのでしょう 残酷な夫のおかげで はじめは愛されたのに 侮辱され とうとう裏切られるの」

彼女のプライドはずたずた。その哀しみは、果てしなく深い。けれども彼女は召使であるスザンナに助けを求め、ふたりは立場をこえて協力していく。そして最後には、「素直にゆるしましょう」という誇り高く気高い精神。
この「ゆるす」という尊い行為が、モーツァルト「フィガロの結婚」の真骨頂なのだ。

仕事のできる方というのは、もって生まれた能力が高いので周囲の者にも当然のように自分と同じレベルを要求してくる。そのラインに到達しない後輩には、厳しい時もある。私の中では、てきぱきと頭の回転の早いデキル人を評価していたのだが、職場のある方とそのような話をした時に、それは違うと諭されたことがある。
その方曰く「ゆるしの精神が大切」
仕事ができるのは当り前、そのうえで他人をゆるす広い心がこの職場では求められる。
ストレスを感じた時こそ、私は伯爵夫人のこの言葉を思い出すようにしている。

”Piu docile io sono,e dico di si.”

------------- 06/12/2 渋谷オーチャードホール -----------------------------
芸術監督:ステファン・ストコフスキ

管弦楽:ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場管弦団

映画『フィガロの結婚』
 


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