千の天使がバスケットボールする

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『惑星ソラリス Солярис』

2010-02-12 21:18:49 | Movie
宇宙に漂う未知の惑星ソラリス。
観測・研究の結果、ソラリスを覆うプラズマ状の”海”全体が有機体であり高度な知的生命体であることが判明した。ところが、その”海”に接触を試みるもいずれも失敗。それどころか軌道上のソラリス・ステーションでは奇妙な現象や事件が発生して混乱状態に陥ってしまった。心理学者のクリス(ドナタス・バニオニス)に、ソラリス・ステーションに赴任して原因究明と解決の任務がくだる。
いよいよ明日は、ソラリスに旅立つ日。両親と美しい郊外に住むクリスを訪問したのは、その昔ソラリス観測隊に参加して行方不明になった同僚を捜索したパイロットのバートンだった。彼は、科学アカデミーでその時に体験した実に奇怪な現象を証言したビデオをみせることで、クリスとクリスの父に警告を与えた。バートンの奇妙な体験をアカデミーの科学者たちは、”幻覚”と結論付けたのだが、ただひとり「海がなにか働きかけたのでは」と意義をとなえたのがクリスの父だった。何か、心に鬱屈したものを抱えているらしいクリスには、バートンの不安も耳の届かず予定通りに旅たつ。すっかり荒れ果てて静寂が包むソラリス・ステーションで待っていたのは、友人でもある物理学者ギバリャンの謎の自殺と何やら秘密を抱えているらしいふたりの科学者だった。そして、当惑するクリスの前に現れたのが、10年前に亡くなった妻のハリー(ナタリヤ・ボンダルチュク)だったのだが。。。

原作は、ポーレンドのスタニスラフ・レムによるSF小説「ソラリスの陽のもとに」。いつもだったら、これから映画を鑑賞される方のために「ネタバレ注意」の注釈などの配慮をするのがブログを公開する際の流儀だが、ロシアに生まれた映像詩人アンドレイ・タルコフスキーの5作目の作品『惑星ソラリス』(1972年製作)は、そのような注意書きは不要だろう。というのも、ストーリーそのものがあまりにも有名で、原作の読書体験の有無に関わらず、内容と結末をおおかたの人はご存知だろう。だから、映画化にあたり原作者と映画監督の対立という事件があったそうだが、あらゆる意味で本作は一篇の優れた金字塔のような小説をベースにしてはいるが、完全にA・タルコフスキーによる彼が表現した「惑星ソラリス」の世界観にしかならない。映画の冒頭では、クリスが娘、初老の両親と暮らす山小屋風の家と小さな湖の景色が映される。翠色の湖面に映る誘うかのような草の流れ。このそよそよと流れるような水のせせらぎの音を映像で表現したタルコフスキーの抒情は、映画の最後の衝撃的な映像に見事に完結されるのだが、原作を読んでいても、結末を知っているからこそこの映画を観たいとずっと思っていた私ですら、やはり圧倒されて映画館の椅子で身じろぎもできなかった。

そうだった。この映画の存在を知ったのは、まだ高校生の頃だったか。やがて幸運にも『サクリファイス』を観るきっかけを得てその哲学的な難しさにおそれをなし、ビデオ時代に観た『僕の村は戦場だった』で詩情豊かな映像とテーマーに目を開かれて、完全にタルコフスキーという監督にひれ伏したところ、最近レンタルビデオ屋で発見したのが『ローラーとバイオリン』の中篇作品。でも、長年ずーーっと観ることを熱望していたのが、この『惑星ソラリス』。この映画をちゃんと観るまではあの世に行けない映画のひとつ。今回、渋谷のイメージフォーラムで開催されている「タルコフスキー映画祭2010」は、そんな私にとっては不況を忘れさせてくれる?僥倖だった。なんと言っても、知的生命体の”海”が、人間の深層意識にある記憶に侵食してきてそれを”幻想”化させるという現象には、ちょっと記憶に関心をもつ私としては絶対見のがせないものがあるぞ。ここで”幻想”と誤った言葉を使ったのだが、”あれ”が記憶を再現するのは物質の伴わない幻想と思い込んでいたのだが、幻想ではなく物体そのものだったことが映画を観てわかる。これは、もっとインパクトがある。妻のハリーの物体をだましてロケットにのせて打ち上げてサヨナラしたクリス。とてつもなく苦しい思いがおしよせるが、これでとりあえず彼女の存在を消えたと考えたのだが、部屋に戻ると待っていたのが、ふたりめのハリーだった。クリスは理解する。意識下の記憶が完全になくならない限り、傷を負っても命を失っても回復して何度も再生、複製されて蘇るハリー。愛する妻、ハリー。

ハリーは、今時の言葉で言えば、クール・ビューティ。かの仏サルコジ大統領の奥さん、カーラさんをはるかに上回る美人。しかも亡くなった時のまま、永遠にトシをとらない。食事を与えたり、衣装を買ったりする世話も必要のない経費ゼロの絶世の美人妻。そんな世の殿方の理想の妻と宇宙船のベットの中で怠惰に暮らすクリス。男として幸福の波に乗っていると思いきや、クリスは妻の姿を見るにつれ罪の意識にさいなまれて精神的に追い詰められ行く。地球上のハリーは、自殺していたのだった。だから、幻影よりも実在化したハリーの存在そのものに、夫は科学者としての倫理と個人的な愛情とのせめぎあいにゆれていく。そして、ハリーはクリスにとって狂おしいほどの愛情の対象でありながら、同時に彼の罪を告発する罰を与えるための物質でもあった。

本作は、SF映画でありながら、人の精神を扱った哲学的な作品である。現代の技術が表現しうるCGを駆使して、ジェット・コースターに乗っているようなリアル感を楽しむSF映画とは趣の異なる考える映画だった。バッハのオルガン曲 『イエスよ、わたしは主の名を呼ぶ』が奏でられ、他人のために自らの命を犠牲にする人物を描いた核の時代の黙示録のような遺作『サクリファイス』(1986年)にもつながるようなラスト。まるでメビウスの輪のような永久に解き放たれない迷宮に入り込んだような衝撃を受ける。人類を凌駕する知的生命体の”海”に征服されたほんのわずかなあの緑のオアシスは、地球そのものなのかもしれない。そして、あまりにも不確かな自らの存在。
水、鏡、美しい若かりし頃の母。丹念に推敲を重ねた完成度の高い映画は、当初165分を長く感じるのではという懸念もほんの数分で消えていく。近未来の道路として使われた当時の日本の高速道路の映像、繰り返し映されるピーテル・ブリューゲルの「雪景色の狩人たち」も含めてほんの1秒も気をゆるませてくれない無駄のない映像が続く。2002年に製作されたスティーブン・ソダバーグ監督による『ソラリス』(Solaris)も観ているのだが、その出来の違いは気の毒だがあきらか。(この監督の『セックスと嘘とビデオテープ』は傑作だけれどね。)

1932年に生まれて86年に亡命先のパリで客死するまでのアンドレイ・タルコフスキーの作品は、学生時代の秀作19分の『殺し屋』も含めてもわずかに9本だった。

監督:アンドレイ・タルコフスキー
1972年ソ連製作

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