千の天使がバスケットボールする

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「資本主義はなぜ自壊したのか」中谷巌著

2009-08-05 22:07:12 | Book
今や3人にひとりは非正規雇用社員。勿論、なかには主たる生計者の夫の補助輪、もしくはちょっとした自分のお小遣い稼ぎ程度に、残業なし、家庭に支障なし、という範囲でおさまる派遣社員を自ら希望されている女性もいる。けれども個々人の都合はともかく、3人にひとりが正社員ではない社会は、どう考えても問題があるのではないだろうか。雇用の調節弁、或いは人件費削減のための非正社員には、カイシャにとって基本的に研修を行ったり等、”人材”として育てる義務もつもりもないのだから、カイシャとしての人的資本は確実に低下していると私は思う。スタッフさんは本人の能力の有無以前に責任や権限、受けた教育が乏しいことから、仕事で照会しても返事が要領をえないのもしかたがないとあきらめる。いったいいつからこんな社会になってしまったのか。かっては一億総中流と揶揄されたがみんなが一応中流の生活を楽しめたのが、この10年間で年収200万円も満たない貧困層が200万人も増加して、とうとう1000万人の大台にのってしまった。ネットカフェ難民の存在は、衝撃だった。年越し派遣ムラの盛況も話題になった。今や米国についで世界第2位の貧困国に失速しているではないか。サブプライムローン問題、世界的不況、いろいろあるが、現在の貧困は主に経済的にというよりも政府、国の失策が招いた貧困である。

そのA級戦犯のひとり、細川内閣の「経済改革研究会」委員、小渕内閣の「経済戦略会議」の議長代理を歴任、三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社の理事長である中谷巌氏の懺悔の書が「資本主義はなぜ自壊したのか」という本書である。
ここで疑問に思うのが、本書のタイトルである。”資本主義”という経済システムは自らの意志がないにも関わらず、”崩壊”という単語を使わずに著者が”自壊”という迷言にしたのか。複雑系の発想を利用すると資本主義社会そのものが生き物のようなふるまいをした結果の自壊というのが、本書の猛省の弁である。そして、著者はグローバル資本主義社会を「モンスター」とたとえているが、その表現に人知を超えて暴走した現象ともとらえられ、なんとなく責任逃れの感も多少抱いてしまうのだが、ではその「モンスター」を育てた者は誰なのか、と私は問いたい。

日産自動車に勤務していた若き中谷青年はサラリーマン生活にあきたらずハーバード大学院に留学し、後にノーベル経済学賞を受賞したケネス・アロー教授の指導を受け、素晴らしい学業の環境のもと経済学を学び、すっかり熱狂的な米国ファンになって帰国した。確かに、米国の教育環境の魅力は大きい。しかし青春の思い出に、小さな政府のもと自由な市場主義経済、グローバル化が真の「豊かな社会」をつくりあげるという幻想(妄想)を抱いてしまったのは、大きな過ちだったと私は断言しておきたい。実際、最近の研究によると、米国経済政策は30~40年ごとの循環を繰り返し、”適切な”政府の介入が行われた時期に、黄金時代を謳歌してきたことがあきらかになってきたというではないか。

労働者を生かさぬよう、殺さぬように留めておくのがグローバル資本主義の論理、カール・ブランニーの第二次世界大戦時の著書「大転換」より、「資本主義とは個人を孤立化させ、社会を分断する悪魔の碾き臼」「悲惨な貧困の原因は、労働力、すなわち人間の生活さえも商品化してしまった資本主義のメカニズムにある」という言葉を引用して敗戦と悪しき改革派の急先鋒だった犯人・中谷氏の懺悔は続く。。。ついでに不破哲三氏のように「マルクスは生きている」くらいの発言をしてもよいじゃないか、とついつっこみたくなる。しかも映画『シッコ』にえらく感激したらしく、キューバーの医療システムを絶賛している。けれどもキューバーだけでなく、デンマークの福祉社会、ブータンの王政国家を絶賛する姿は、多分に表層的で研究者の姿とは遠く、キリスト教型一神教の弊害から日本的多神教を評価する、むしろ観念的な宗教者のようである。トヨタをモデルにした日本企業のデザイン・インなどの工夫は説得力もあり、環境立国としての日本のリノベーションや「還付金付き消費税」の導入から貧困・格差解消も提案している。

本書はかなり話題になって売上が伸びているようだが、おそらくワーキングプアとは無縁な人々である読者が、本書を通じて行き過ぎた構造改革の弊害を真剣に最高するよい機会になると期待したい。おりしも政権交代がありうるかもしれない選挙も近い。

■こんなアーカイブも
「日本の貧困と格差拡大」日本弁護士連合会編
「縦並び社会」毎日新聞社会部
「マルクスは生きている」不破哲三著
フリーター漂流
いま憲法25条”生存権”を考える