千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

『マッチポイント』

2006-08-26 23:56:19 | Movie
のるか、そるか、人生のマッチポイントは、なにも受験だけではない。

往年のオペラ歌手の音楽にのせて、テニスボールがゆるやかにコートを左右する。そのボールの軌跡が描く優雅な流線形が、ネットにあたって一瞬のうちに崩れ、ボールは跳ね上がる。さて、そのボールはいったいどちらに落ちるのか。”マッチポイント”における運が、試合の勝負を決める。
ウッディ・アレン監督らしい知的でクールな幕開けは、スタイリッシュだ。

アイルランド出身のテニスプレイヤーだったクリス(J・R・マイヤーズ)は、ロンドンの特別会員制のテニスクラブのコーチに採用された。働くために借りた狭いアパートは、週200ポンドもする。如才なく、礼儀正しく、頭の回転の速いクリスは、そこで英国のセレブの一員であるトムにたちまち気に入られる。クリスがオペラ好きと知って、トムは父親が後援しているオペラに早速彼を招待する。そこで出会ったトムの妹のクロエは、ひとめでクリスに恋心を抱き、彼は週末の別荘にも招かれた。首尾よく、兄妹だけでなく、両親にも気に入られ、クリスは上流階級への階段をのぼる足がかりをつかんでいく。彼に夢中なクロエの薦めもあり、父親の経営する大企業に転職するやたちまち重役ポストを与えられ、運転手つきの高級車に乗れる身分に昇進する頃には、家族として迎え入れたいと父親にくどかれるようにもなった。

資産家のお嬢様との結婚という切り札は、東西を問わず、貧しい青年が上流階級へ仲間入りするプレミアチケット。自分を一途に愛し、芸術への造詣も深い妻、テムズ河を見下ろすおしゃれで高級なアパート、将来の幹部を約束された社会的な地位、広大で手入れの行き届いた広壮な別荘、美しい馬まで彼のために用意した新しい家族。クリスは、男だったら誰もが憧れ羨望するすべてを手に入れた。それなのに彼は、未来の義父から娘との結婚をあたたかくすすめられた時、華やかな別荘での宴から逃げるようにひどく暗く重い絶望的な表情で階段を降りていく。まるで、階段を一気にかけのぼる人生に反比例するかのように、彼の気持ちは救いようのないくらいどんどん落ちていく。その先には、女優になるためにアメリカからきていたトムの婚約者のノラ(S・ヨハンソン)の姿があった。クリスは、グラマラスで魅惑的なノラの容姿に惹かれていた。トムの婚約者であるノラと関係をもつことは、彼ら兄妹への二重の裏切りであり、セレブからの転落を自覚してはいるが、ノラへの激しい愛欲を制御することはできなかった。このように人生を自分でコントロールしているようで、ほんの運やめぐりあわせに翻弄されることはしばしばあるものだ。
なかば強引に、クリスはノラと性的な関係をもってしまうのだったが。。。

クリスは野心家で上昇志向が強い青年だが、本来はスポーツ選手だったことから、計算して人を利用し、それを踏み台にのしあがり平然と裏切るタイプではない。上流社会の人々に取り入ったのか単に気に入られたのか、はたして故意か偶然か釈然としないまま、ともかくこれ以上にないくらいの強運がクリスに味方して得たポジションだった。しかし、まるでそれに帳尻をあわせるかのように、ノラとの出会いは運の尽き。外的には、”運”が彼をおしあげ、内面的には小さなほんの気まぐれのような”運”が、彼をどん底に落とし、最後のマッチポイントに向けて、物語は一気に進む。従順な妻と奔放なノラの間を、まるでテニスボールのようにいったりきたり追い詰められてたどり着いたクリスの驚くべき行動。この間の緊迫感は、観ていて息苦しくなるくらいだ。このはらはらどきどき感は、映画「リプリー」を思い出す。主人公はあくまでもクリス。クリスの立場で描かれていくと、恐ろしいことに次第にクリスに同情しなくもない。
そして河に投げられた老女の結婚指輪のゆくえは、物議を醸して当然、ウッディ・アレンが映画を通して描いた現代版「罪と罰」である。

モンゴメリー・クリフトとエリザベス・テーラーが主演した映画「陽のあたる場所」は、往年のハリウッド映画の名作である。主人公のジョージは叔父の営む工場で働くうちに、着々と出世の階段をのぼっていく。同僚の恋人と楽しい夜を過すこともあった。そんな充実した日々に突然表れたのが、エリザベス・テーラー扮する眩しいばかりの美しい令嬢だった。しかも自分と住む世界の違う上流階級の彼女に気に入られ、婚約にまでこぎついた絶頂の時にもたらされたのが、捨てた恋人の妊娠・・・。ジョージは、獄中で自問自答する。この「罪と罰」を彷彿させる彼の内面の葛藤と、導き出された思想は、それに至るまでの彼の人生と交錯して厳かで素晴らしい。そしてなんの未練もなく、あんなに惚れていたジョージを忘れ、彼と関わったことになんら傷つくこともなく、陽のあたる場所に戻っていく美貌の令嬢を演じたエリザベス・テーラーが、見事にはまり役だ。大好きな映画である。
1952年製作されたこの映画から、ほぼ半世紀。現代版の「罪と罰」は、全く異なる結論に終わる。ウッディ・アレンらしいスノッブな皮肉に満ちた結末が、本作品の評価を高いものにしている。最初にクリスが狭いアパートで読んでいた本が「罪と罰」。新しいミューズとなりおじいさん(アレン)を眩惑させるスカーレット・ヨハンセンの役名が、”ノラ”。そして良心や神への忠誠ではなく、運は誰に微笑むか。

この青年は、最後の最後まで運に裏切られることはなかった。それは、本当にラッキーとしか言いようがない。しかし社会的な罰から逃れられたとしても、罪がクリスの心を永遠に罰を与え続ける。可愛い息子の誕生を祝う家族に背を向けて、高層マンションから流れるテムズ河を眺めるクリスの瞳は、人生の死を象徴するかのような暗い空洞だった。