千の天使がバスケットボールする

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患者たちの孤独なボウリング

2006-08-01 23:20:27 | Nonsense
「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」

認知症の母親を合意の上で殺害したとして、承諾殺人 の罪に問われた無職K被告(54)京都市伏見区=の京都地裁の公判は、検察側が被告の母への愛情を 詳述するなど、異例の展開をたどっている。
15日に開かれる第2回公判には、K被告の親類が出廷。献身的な介護の末に、失業などによる生活苦で追 い詰められていく被告の様子を証言する予定だ。 被告は生活苦から母親当時(86)との無理心中を計画。ことし2月1日、伏見区内を流れる桂川の河川敷で、母親の首を絞めて殺害したとして起訴された。自分も自殺を図ったが死にきれなかった。
(06/5/10共同通信)
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この平成8年に父が亡くなり、母ひとり子ひとりとなった被告が母を手にかけるまでの経緯をもう少し詳しく報道したスポーツ新聞を読むと、K被告、そして亡くなった方に同情を禁じえない。検察官の異例の対応に同調したい。大家族から核家族へ、子沢山から少子化、そして地域社会の相互援助の限界を感じる事件だった。それはまた逆に、子どもを育てる親としての地域の子育て援助の消失とあわせ鏡のようになっているのではないだろうか。今月号の『選択』に掲載されていた精神科医の遠山高司氏のエッセイに、考えさせられた。

近年、50歳過ぎの精神患者の入院が増えているという。その年齢で入院するはめになった経緯をたどると、80歳過ぎの母(もしくは父)の高齢化に伴い、食事の世話や家事ができなくなることによる病状の悪化にある。不幸にして、地域社会を含めた受入先を失った中高年の患者は、そのまま病院で社会的な死を迎えることになる。精神科の治療技術の向上に伴い、重い精神患者でも自宅での生活や就労もできるようになってきたのだが、それも親の援助と支援があっての可能性だった。親が高齢で倒れたら、それに代わる内容を担う行政も民間施設もない。例えば、病状悪化による一回の受診援助を民間機関が行うためには、300万円もかかるそうだ。単身の精神障害者の生活援助には、月数10万。地域で支えるには、莫大な費用がかかる。しかし、それは今の地域での話である。かっての相互援助の習慣をもちえた地域社会だったら、もう少し安くなっただろう。

以前、病院で30代半ばの精神患者の男性と知り合ったことがある。その方は明るく、饒舌で(この饒舌には、日常生活で社会との接点が少ないことを感じさせられた)、お話もうまくて、精神患者には見えない。20代に仕事の激務で鬱病になり、やがて精神障害者になったという。症状が悪化すると入院して、結局入退院を繰り返し、障害者手帳もちゃんともっている。ご両親や妹と団地に住み、もらっている年金の金額まで教えてくれる彼の表情は、なんの屈託もない。けれども楽しい会話の中で、まだ現役で働いてらっしゃるというご両親が高齢になった時のことを、内心案じてもいた。

確かに疫病は減少し、この国では乳幼児が病気で亡くなることは、確実に減少している。にも関わらず、病そのものは少しも減ってはいなく、むしろ増えている傾向にあると遠山氏は言う。驚くことに、何らかの身体的な障碍をもって生まれてくるこどもは出産の10%にも及び、更に成人するまでに表面化する精神的な疾患も相当数ある。治療し問題なく生活できるこどもの方が多いが、自立した生活を送れない方も少なからず存在する。地域コミュニティの崩壊は、こうした偶然のアクシデントがうんだ様々な個性をもつ人々の親の援助を増やした。どんなに愛情があっても、自分が高齢になれば体力の限界とともに”援助”が”負担”となることもありえる。もっとも近隣共同体の衰退は、日本だけのことではない。ロバート・D・パットナムの著書『孤独なボウリング』内にあるリーグボーリングの現象が象徴する一般的互酬性の拠らない社会が、効率が悪いことと重なる。
今は会う機会のなくなった母の友人だったその方のことを、寄る辺なく思い出した夜だった。