ダンテス•ダイジの「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」は、4つの部分に分かれている。
マントラ禅、丹田禅、クンダリニー•ヨーガ、只管打坐の4つだ。ダイジの真骨頂は、なんといっても後の2つにあるのは確かだろう。でも、書いた本人がわざわざ最初に置いたからには、前の2つもそれだけ重要だってことだろう。
まず最初のマントラ禅だけど、これは文字どおり、「座禅を組んで、マントラを唱える」ということを意味する。
単にマントラを唱えるだけなら、「マントラ•ヨーガ」ってものもある。これは、マントラの音の波動によって、チャクラを刺激することに目的がある。でも、ダイジは、そんなんじゃ足りないと思ってたみたい。「現代の粗雑な地上世界においては、せいぜいストレスを軽減する程度のものに過ぎない」だそうな。
ダイジいわく、だから、マントラ禅なのだ。単に唱えるだけじゃなく、座禅を組んで精神を集中し、全身全霊で唱える。
>この全身全霊で唱えるということが肝要な点であり、ここにマントラ•ヨーガではなく「マントラ禅」である所以(ゆえん)があるわけであるが、マントラ禅として、マントラを精一杯発声、もしくは念ずるとき、そこに込められた誠意、真心、信頼というものが、最も適切な生体機能を作動させることになるのである。
全身全霊でマントラを唱える。その素晴らしさは、よく分かる。•••とはいっても、日本の住宅事情だと無理があるのも事実だ。ご近所から聞こえてくる「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経•••」の大音声は、宗教嫌いな人を確実に増やしている。ましてや、「ノーマクサンマンダー、バーザラダン•••」とか、世間の一般人には意味不明なマントラだと、警察に通報されかねないのが実情だろう。宗教施設でなら、大勢で心おきなくできるけど、そうするとまた、組織のシガラミが•••。
できれば、山とか川とか、近所迷惑にならないところでやりたいものだ。でも、たまにはできるだろうけど、継続するのは難しい。ただ、「マントラを精一杯発声、もしくは念ずるとき」と書いてあるところをみると、「心の中で念ずる」だけでも、まあセーフみたいだ。ホントは、大声で唱えるのが一番いいんだろうけど•••。
それはともかく、マントラは、自分の好きなものを選んでよい。宗派も問わない。キリスト教なら「主の祈り」、仏教ならお経や念仏、お題目。神道なら、祝詞(のりと)。密教系統には、いかにもマントラらしい言葉が特に多い。ただし、どの言葉を選ぶかによって、波動は当然、異なる。
日本では、やっぱり、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏•••」とひたすらに念仏を唱えるのがオナジミだ。これは、ずっとやってると、この上ない法悦を得られることが古来から知られている。
これをもっと徹底的にやるのが、スーフィズム(イスラム神秘主義)のズィクル。みんなで輪になって、リズムをとりながら、「ラーイラーハ•イッラッラー、ラーイラーハ•イッラッラー•••」と歌うように唱える。だんだんテンポが速くなり、最後は「ラッ!ラッ!ラッ!ラッ!」という、短くて鋭い発声になる。これにより呼吸がキツくなることで、さらに変性意識状態へと誘導される。凄まじい法悦を生み出すことで知られる、マントラ行の最高峰だ。もっとも、日本•中国•インドの神秘を極めたダンテス•ダイジだけど、さすがにスーフィズムのことまでは書いてない。
それはともかく、要するに「どのマントラを唱えるか」ということより、「自分が選んだマントラを、全身全霊で唱える」というところに意味がある。
全身全霊で唱えていれば、そのうち、我を忘れる。自動的に、忘我の境地に入れる。
>当然、自己放棄の度合い、マントラ禅の実質的効果を規定することとなるのであり、逆に言えば、実質的効果を期待して唱えられるマントラは、マントラ禅にはなり得ないのである。
この「何も期待するな」というのは、マントラ禅に限らず、座禅では常に強調される。もちろん、「瞑想による神秘体験」など、期待すべきでないものの筆頭格だ。筆者の場合は、「集中力を強化したい」というのが瞑想する大きな目的のひとつだけど、ホントは、集中力が強化されることすら期待すべきじゃないんだろう。
何かを期待してるうちは、まだ「自己放棄が足りない」ってことか。ただし、期待しないとは言うものの、結果として神秘体験が起きることはよくある。
ダイジ自身、マントラ禅を一心不乱に行じているときに起きた神秘体験を、散文詩にして綴っている。神秘体験と言っても、「沖縄の竹富島の真夜中の便所で首吊り自殺した友人が、目の前に現れた。気がつくと、私は、星のまたたく真夜中の竹富島にいた。そこで私は、友人とともに便所で首を吊って一緒に自殺した」という、あまりにもダンテス•ダイジ的な、なんともいえない神秘体験なのだが•••。
>いずれの場合にも、その中に自分を投げ出し、一心不乱に発声し続け、神、あるいは大自然、生命の本源に自分を溶け込ませるつもりで全身全霊で行うのである。これが、マントラ禅である。
>唱うれば われも仏も なかりけり 一遍
タイ、ミャンマーには、解脱されたお坊さんもいるらしい。
そういう人と出会える可能性もある。
http://hhyoga.blogspot.jp/search/label/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%81%A8%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%8A%E3%83%BC
なるほど
集中するために「ラべリングする」というアイディアが湧いたのかな(笑)
なるほど。地橋氏による指導は、サティーを入れろ、かな。
2001年のヴィパッサナー瞑想合宿人のレポートによれば、地橋氏は(感覚)へのサティでも、
内面へのサティでも、感じていることに「ラベリング」することがいかに大切かを強調しておられた、とある。
ラべリングすることも、サティーを入れることも、ともに思考の介入に他ならない。ヴィパッサナー瞑想を
長年にわたり教える地橋氏は、ヴィパッサナー瞑想によって、解脱できたのかどうか、そう思うだけのこと。