千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

裏町

文献により妙楽寺町は
「妙楽寺前町」「妙楽寺裏町」「妙楽寺新町」の
三つの表記がうかがえるばってんが・・・・

新町は名前の通り後からできた町ていうとはうかがえるけど
「前町」と「裏町」が同じ町やったか別の町やったかがわからんとです。
小田部博美氏博多風土記では元禄年間に新町が裏町て呼ばれとったっちゃ
ないかいな?て書いてあるけど別の文献では
江戸中期は妙楽寺町22軒、妙楽寺裏町9軒に対し、新町は18軒あった・・
てなっとります。
ま、どげんでちゃ良かていうたらそれまでばってんが・・

さてこの「妙楽寺」は一丈て言うけん約3mの石垣に囲まれた
寺であり外国の船が入津するときはその上に
伽藍がそびえたち目を見張ったとあります。
1316年正和五年丙辰の鎌倉時代に建立されたてあります。
糸島郡内、芥屋、小金丸。野北、桜井。馬場の村に
七十町歩の寺領があったとさえも言われます(博多風土記)。

同じころ息浜には上市小路、上浜口、上洲崎
袖湊ば隔てた博多本土の南部には中小路、魚町等に
人がまばらに住むくらいで博多はほとんど寺ばかり
それ以前に創建された聖福寺の門前が一番開けたところやったそうです。

こげな歴史ある博多の町も昭和の町名町界改正案では・・・・
現在の古門戸町(妙楽寺・古門戸町・行町・濱小路・上中対馬小路)は
下手したら「大和町」になっとったとかもしれんとです。
まったくもって福岡市のやることは博多壊滅であります。
博多風土記の筆者の小田部氏も
あたかも弊履を捨てるがごとく何の雑作もなく抹消して町名をつけたか?
植民地風の「大和町」なぞという町名をつけたか?
て憤っておられます。

1528年享禄二年、突如として秋月種実が博多に侵攻し博多の町人の自衛軍が
立ち向かったが一晩で敗れ去ります。
博多の経済力ば独占したい秋月軍は津中に火ばつけ焼き払いました。
それから十年後博多に大火事が起こり妙楽寺も消失してしまいます。
しかしこの火事は大友軍大内軍と秋月軍の戦火によるものではないかと
考えられております。
このころから博多戦国時代が激しくなってゆきますと。
毛利少弐軍と大友軍が石堂川ば挟んで決戦。
この時も焼け野原となった博多から紙屋宗湛は唐津に逃げてます。

その後黒田長政が入国後今の御供所町に移転再建されました。

ランキングに参加中です。
見るたびにクリックしてつかあさい!

コメント一覧

konoichi
けんきちさん
反対した博多の先人達に感謝せないかん。
築港にあった「冷泉町」ばなんであげな離れた場所の町名に盛ってきたかもわからん(>_<)
けんきち
“博多祇園山笠今昔物語”(昭和27年発行)には
近く実施される区割整理後の新町名と町界として
行町・濱小路あたりを“行浜町”その西側を“大和町”西方寺前町あたりを“光和町”その西側を“対馬町”と記されています。…やおいかんです。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「山笠・博多の事」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事