掃除は旅館業とは切っても切れない重要な業務だ。
近年の掃除は専門業者による合理的な方法も多用されるが、社長中嶋は「最も原始的」な掃除を係に命じている。
中嶋の掃除についての原始体験は学生の頃に遡る。アルバイト先で掃除を命じられ、嫌々作業をした。
先輩から怒鳴りつけられた。「お前の掃除は円運動だ!! 見えるところを綺麗にするのは掃除とは言わない。」「掃除は縦・横の方向でやれ!!」
ふて腐れた態度に先輩アルバイトは腰を屈め、中嶋がモップで撫でた床を雑巾で拭き始めた。1時間後、汗を流す先輩の顔に笑顔が浮かんだ。
「これでお客さんに喜んでもらえる」
その言葉と笑顔を中嶋は今でも鮮烈に記憶している。
その体験は、神事か仏事の如く毎日行われ、お客様をお送り、お迎えする儀式として今も「正平荘」に息づいている。
通常の玄関にあたる客室の入り口は、係の女性が息を切らせながら全身で磨き込む。まるで鏡を磨く様に自分の顔が綺麗に映るまで磨くのだ。
お客様が最初に足を踏み込み、そして発っていくプライベート・スペースを大切にしている。
そのような作業をお客様は知る由もない。いや、知る必要もないのだ。