小鳥屋。猫屋。

書いているうちにファンタジー小説になっている気がします。なので、ファンタジー小説、です。

契約の虹 始まり その二

2016-12-23 13:35:07 | 日記
 男は森に入り、思う存分、獣を仕留めました。
引き金を引くたびに、体全体に伝わる衝撃を楽しみました。
男は実は、この身震いするほどの大金持ちが所有する恐れ多いこの森に、
不法侵入するという不届き者たちに心当たりがありました。

 男は以前、鶏の納入に出かけた時に、森にいた猫を追いかけて
敷地内で迷子になりました。
その頃の男は、放蕩が過ぎて、思ったように家族から金をもらえなくなっていたので、
とにかくムシャクシャしていました。
自分より小さくて弱いものに、このいらいらをぶつけたのでした。
左右違う色の目を持つ、気味の悪い猫がこちらを警戒するように見ていたので
一気にその攻撃心が爆発し、物を投げたり、追いかけたりして、からかってやったのでした。
いつもとは違う道なき道を進んで行ったので、今まで来たことのない、
うっすらと霧に覆われた湖に出てしまいました。
「この森に湖なんてあるのか」
 そう感心していると、湖にかかっていた霧が晴れてゆき、向こう岸に
何軒か同じ造りの屋敷が立ち並んでいるのが見えました。
男は目がいいことだけが取り柄で、じっと目を凝らしてみてみました。
すると、女の子の姿が見えました。
何人くらいでしょうか。
四、五人ずつ集まって好き勝手に遊んでいるように見えます。
顔の形までは分かりかねるほどの距離でしたが、どの子もたたずまいは美しく、
優雅に動き、よくしつけをされているようでした。
おそろいの服に身を包み、まるでおとぎ話の中の妖精たちを見ているようでした。
もっとじっくり見ていたかったのですが、一瞬でまた霧がかかり、
それはみるみる濃くなってしまいました。
男は残念に思いましたが、その光景を再び見ることをあきらめ、
自分の身が大事と、湖に落ちてしまわないよう慎重に歩を進めて行くと、
不思議なことにいつも納入に訪れる下働きたちの大きな家に着いていました。

 その晩、その夢のような光景を、男は幼い頃からの、
なにかと悪い事をする時はいつも一緒の仲間に、酒の席で話して聞かせたのです。
以前から得体が知れない巨大な金持ちのことを、心底気味悪く思っていた男たちは
「寝言は寝て言え」と笑い飛ばしていましたが、どの男も目は笑っていませんでした。
そしてその夜から、一人、また一人と、森に入ったまま、帰ってこなくなりました。

 男はこの仲間内に、幼い頃からあまり良い感情を持てない人物がいました。
仲間の間で一番腕っぷしが強く、悪い事を画策する時の中心人物です。
この鶏屋の男のことを使い走りにし、小銭をせびり、にやにや笑っているようなやつでした。
おもしろいことがあるとすぐに飛びついてめちゃくちゃにするくせに、
危険が伴うことにはただの傍観者を気取って何も行動を起こしません。
男は心の中で、この卑怯な弱虫が森に入って行かないことに不満を持っていました。
「あいつが森にのまれたらよかったのに」
 仲間が帰ってこないというのに、一向にその森に入ろうとしないこの弱虫な男のことを、
村の者は「小心者」と陰で悪口を言い出しました。
それを漏れ聞くようになって、意地かプライドか、とうとうその小心者は、
近々森に入る、と宣言しました。
男は小躍りしました。もう帰って来るな、と思いました。

 あの日、旦那様は好きなだけ撃ってもいい、と言っていた。
そう、目についた生き物、全部、と。
何かあったら、すべて責任はとってやる、と。

 男は人間を探していました。あいつと森で出会う事に期待しました。
こうして犬たちが何か獲物を見つけては走り出し、吠えるたびに、男はその期待を膨らませました。

 季節は進んだりまた戻ったりを繰り返し、その変わり目の不安定さを景色に映し出します。
青々と芽吹き始めた若い葉に、昨日の夜に降った雪が、にごった水の色をして乗っかっていました。
 遠くに聞こえる犬たちの声が動かなくなりました。とうとう獲物を追い詰めたようです。
空に向かってこだまし、溶けてゆくその声の元に、男は一心不乱に近づいて行きます。
どうやらこの広大な森と、住居であるお屋敷を隔てる、レンガ造りの塀に追い詰めたようです。
遠目に見えてきた犬たちの尻尾は、ちぎれんばかりに左右に振り切り、
その激しく空を噛む口元から出る声は、獲物を威嚇し続けています。
だんだん響くばかりだったその声が、近くに、はっきりと聞こえてくるようになりました。
雪を踏みしめ、細い幹の間を抜け、やっと犬たちが吠え立てている獲物を目の当たりにして、
男は腰を抜かしそうになりました。

 真っ白なコートを着たそれは長い黒髪を持ち、濃い茶色の瞳を涙で湿らせていました。
肌の色はどこまでも白く、透明に透けて見えるようでした。
真っ赤なさくらんぼうのような唇の間から白い息を吐き、
今にも噛みつかんばかりの犬たちから距離を置くように、
ゆっくり後ずさりしながら引きずるその足のひざからは、
唇と同じ色の、真っ赤な新しい血がにじんでいました。

 男はしばらく呆然とそれに見とれていました。
今まで見た何物にも勝っていました。
降り積もった雪に照らされ、きらきら美しく輝いていました。
レンガ造りの塀に背中を預けているそれは、息も絶え絶え、小刻みに震えています。
恐怖、羞恥、絶望。
その華奢な身体から隠しきれずに漏れ出すそれらの感情を、
男は全身で感じ取り、気持ちが一気に昂りました。
「お前の笑顔は気持ち悪い」
 昔、あのいけ好かない、リーダー然とした小心者の男に褒められた自慢の笑顔で獲物を見据えます。
にらにらした笑顔を引っ込め、一瞬の真顔の後に銃をゆっくり構えました。
銃口を獲物の足に合わせたその時、男は後頭部に何やら固いものを押し付けられました。
「お前は散弾銃で撃たれた人間がどうなるのか知っているのか」
 ささやき声ですが、はっきりと響く、今までに聞いたことのない男の声が背後からしました。
明らかな力の差。覚悟を持った殺意。
銃を構えていた男の両腕はゆっくりと垂れ下がり、冷や汗が噴き出てきました。
今度はこちらが恐怖に支配され、小刻みに震える番のようです。

 銃口を外されたその美しい獲物は、ゆっくりゆっくり安堵の表情を浮かべてゆき、
つぶらな瞳からぽろぽろと真珠のような涙を落としています。

 また、はらはらと雪が降ってきたようです。
真綿のような雪が、その豊かな黒髪に白い花を咲かせます。
それはまるで雪の精のようでした。
うっすら微笑んだこの世の生き物とは思えないその美しい姿を、
男は絶望の淵で、あの世への土産物として、ゆがむ視界に焼き付けていました。
先ほどまで、やかましいほど吠え立てていた犬たちの声が耳に届きません。
男はどうやら極限状態で音を失ったようです。
積もった雪の上に乗る新しい雪があたりの空気を震わせるほどの静寂。
男があきらめの息を吐き出した瞬間、耳に入っていた詰め物がポロリと取れたかのように音が復活しました。
良く通るチェロの響きを持った男の声が、緊張感を最大限に背後から叫びました。
「見るな! 目をつぶれ!」