京都の闇に魅せられて(新館)

京都妖怪探訪(302):東向観音寺と土蜘蛛灯籠





 どうも、こんにちは。
 オフの多忙や夏バテ等の理由で、シリーズ前回からだいぶ間を開けてしまいましたが、ここいらから頑張ってシリーズ再開といきたいと思います。
 久々の新記事ですから、ここは有名な妖怪にまつわるスポットをとりあげようと思います。

 今回は、東向観音寺境内に遺されているという土蜘蛛灯籠。
 鬼・妖怪退治の英雄・源頼光を悩ませた宿敵ともいうべき存在である妖怪・土蜘蛛。
 かつて京都の一条七本松にあったという土蜘蛛の塚から発掘されたというその灯籠をもらい受けた人が居たのですが、たちまちその人の家運が傾いたので、「土蜘蛛の祟りだ」と恐れられて、東向観音寺に奉納された。
 そんな曰く付きの灯籠を紹介します。
 また、この寺には他にも、「土蜘蛛」の歴史に縁のありそうなスポットがありましたので、それも併せて紹介します。


 本シリーズでも何度か取り上げたことのある、有名な北野天満宮の南側(今出川通り側)入り口。






 入り口・一の鳥居から参道を歩いて行きますと、二の鳥居の左側(西側)に、東向観音寺の門が見えてきます。









 自伝に寄りますと、元々は「朝日寺」と呼ばれ、延暦25年(806年)に桓武天皇の勅命によって藤原小黒麻呂が建立したそうです。
 藤原小黒麻呂……。シリーズ第298回でも少し触れましたが、北野天満宮が建てられたこの地は、元々藤原氏に縁の深い土地だったようです。
 天暦元年(947年)に朝日寺の僧・最鎮らが天満宮を建立した後の応和元年(961年)、筑紫の観世音寺より菅原道真自作の十一面観世音菩薩を安置したそうです。
 本堂が東向きなので、東向観音寺と呼ばれるようになったそうです。元々は東向きだけでなく、西向きの観音寺もあったそうですが、火災や戦乱などで焼失したため、現在は東向きの方しか遺されていません。
 現在は、真言宗泉涌寺派の寺院となっています。



 まずは、本堂へと参拝。





 本尊は菅原道真作の十一面観音像でが、秘仏であるため25年に一度しか公開されません。
 前は平成14年(2002年)に公開されましたので、次の公開は平成39年(2027年)だそうです。
 うーん、それまでに私は生きていて、その秘仏をその目で拝むことができるだろうか、などと思ったりしますが。
 ところで、空海や小野篁、そして菅原道真もそうですが、昔の偉人・有名人には後世にまで遺されるような仏像を創った人が結構居るようです。
 昔の偉人・有名人には彫刻等の才能もあったのでしょうか。
 あるいは、仏像を彫ることも地位や教養のある人として必要なたしなみのひとつだったのでしょうか。



 境内には他にも面白そうなスポットがありましたので、そのいくつかを見て回ります。



 本堂前にあるこの像は、「びんずる行者」でしょうか。





 確か、「お釈迦様の弟子だったが、どうしても飲酒がやめられないためにお堂の中に入れてもらえなかった」という、人間味あふれる人物です。
 「首から上の悪いところを触るとその患部が治る」と信じられています。



 白衣観音堂です。





 ここの本尊は、明暦元年(1655年)に明国より寄進されたという高王白衣観世音菩薩です。
 子供を抱いた姿の珍しい観音像で、世継子授・安産・愛児健祥・厄除・災難除等のご利益があるとされています。
 子授祈願の御礼参りに人形を納める風習があるため、現在も堂内には多数の人形が納められています。



 岩雲弁財天。





 豊臣秀頼が本堂を再建した時に奉納したという弁財天で、寺の鎮守神として祀られています。
 毎年12月1日に開帳されるそうです。



 行者堂。





 ここは、役行者(えんのぎょうじゃ)を祀っている場所でしょうか。
 仏教(密教)の寺院に、本来は異教の神である弁財天や、修験道の開祖である役行者が祀られているのは、ちょっとアレな気もしますが。
 いや、そう考えるのは、西洋の一神教的な発想に毒されているからなのかな?
 神仏習合の日本らしいと言えば、日本らしいのですが。

 しかし、土蜘蛛塚のあるこの場所で役行者が祀られているのは、おそらく偶然ではありません。
 少なくとも、私には偶然とは思えません。
 修験道の開祖・役行者は葛城の民の出身と言われています。
 そして土蜘蛛の正体とされているのが、葛城氏や葛城の民。奈良・葛城山の辺りに勢力を持っていた人々です。神武天皇東征の際には抵抗勢力として立ちはだかり、そして凄まじい虐殺を受けたとされる先住民です。
 その後の歴史・伝説上でも、天皇や朝廷など中央権力と対立しては潰されたり、闇に追いやられた、いわゆる「まつろまぬ民」。
 背丈が低く手足が長いという身体的特徴があり「八握脛・八束脛(やつかはぎ)」(※すねが長いいという意味)で呼ばれていた上、穴居生活の風習を持っていたために、「土蜘蛛」と呼ばれるようになったという説がありますが、おそらく彼らはすばしっこくてゲリラ戦法などを得意としていたとも考えられます。
 そんな人たちが、天皇や朝廷に匹敵するか、あるいはそれ以上の勢力を持っていた時代もあった。大和朝廷の側からすれば、非常に邪魔で、そして恐ろしい脅威であったに違いありません。
 謡曲や歌舞伎などの古典作品の中には、土蜘蛛を恐るべき大妖怪として描いている作品もありますが、それも「恐るべき反逆者・抵抗勢力」という大和の中央権力の抱いていたイメージが反映されていたものと思われます。
 現代の作品の中でも、映画化もされた荒俣宏氏の『帝都物語』という小説があります。役行者の末裔と称する加藤保憲(かとうやすのり)という呪術者が、魔術・呪術的テロで東京を壊滅させようとするストーリーですが、それにも「葛城の民=反逆者・まつろわぬ民」という日本の歴史上受け継がれてきたイメージが反映されているのです。



 話を境内散策へと戻します。



 行者堂より奥、囲いで仕切られた一角に、伴氏廟があります。








 伴氏とは、菅原道真の母方の氏族です。
 そして元は「大伴氏」。天孫降臨の際に先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とも言われた、古代日本の名門氏族のひとつです。
 しかし時代を経るに連れて、藤原氏との権力争いに敗れて、歴史の表舞台から姿を消していった氏族のひとつでもあります。
 この点は、同じく藤原氏に敗れて衰退していった道真の菅原氏などと同じ。そして、やはり中央権力との戦いで葬られた葛城の民と似たところがあります。
 もしかしたらこの東向観音寺は、藤原氏等の中央権力によって葬られた人々の霊を祀るための施設だったのではないか。そんな気もしてきました。



 そして囲いに囲まれた中、伴氏廟よりさらに奥の場所に、件の灯籠は安置されていました。



 




 この小さな小屋と金網に覆われたのが、死してもなお祟りをもたらしとという、曰く付きの灯籠です。


 この土蜘蛛についての話には諸説ありますが、源頼光を苦しめた話には『平家物語』や能『土蜘蛛』等で描かれたエピソードが有名です。
 特に有名なのが『平家物語』に書かれていた話。
 源頼光が重病に臥せっていた時、大柄な廻漕が現れて頼光を縄で絡め取ろうとする(この時に頼光を襲ったのが、妖艶な美女だとする作品もあるそうです)。頼光が必死で応戦し、源氏に伝わる名刀・膝丸で斬りつけたところ、僧は逃げ去った。翌日、頼光が配下の四天王を引き連れて、斬りつけた時の血の跡を辿っていくと、北野神社裏手の塚に着いた。そこには巨大な蜘蛛が居て、頼光一行はこれを成敗した。その後、頼光の病は回復し、名刀・膝丸は「蜘蛛切り」とも呼ばれるようになった。

 だいたいこんな話です。

 元は「まつろわぬ民」だった土蜘蛛も、この辺りになりますとかなりモンスター化して描かれていますが、このような伝説が遺される背景には何があったのでしょうか。
 酒呑童子討伐などに見られるように、反朝廷勢力の討伐・取り締まり等が、当時の源氏に与えられていた役割です。そこから考えられるのは、「反朝廷勢力やその縁者・関係者による暗殺・毒殺未遂事件」だったのではないかと思いますが……真偽のほどはわかりません。



 こうして、歴史の影で戦いを繰り広げてきた人々に思いを馳せ、あれこれと想像(妄想?)をめぐらしながら、この曰く付きの場所を後にします。



 それでは、今回はここまで。
 また次回。




*東向観音寺のHP
http://www5.ocn.ne.jp/~kannonji/



*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm




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