京都の闇に魅せられて(新館)

淀のえんま道と淀新町天満宮 @ 京都妖怪探訪(595)





(記事中の写真はクリックで拡大します。プライバシー保護等の為、人の顔部分に修正を加えていることがあります)


 どうも、こんにちは。
 2019年(平成30年)を迎えました。
 前回記事の続きで、正月3日の‘妖怪の子孫’‘京都の妖怪伝道師’葛城トオル(玄幽)氏主催の京都・魔界巡りツアーのレポート後半です。
 今回は京都の南の方、淀の辺りを案内していただきましたが、後半はかつて「えんま道」と呼ばれた道を案内していただきました。


 まずは前回の続き、與杼神社の東鳥居付近、京阪電車高架下に建つ、道標の石柱前から。





 「十一面観世音尊像」「一口村」「安養寺」などと刻まれています。
 今回はコースから大きく外れてしまうので訪れませんでしたが、京都府久世郡久御山町に安養寺という浄土宗寺院があり、そこに十一面観音菩薩像が本尊として奉られています。
 「一口村」の「一口」は「いもあらい」と読むそうです。
 この地名は、「‘弘法大師’空海が、洗ってもらった芋を「うまい」と言って一口で食べてしまったという伝承に由来するそうですが、その地名の由来については他にも諸説あるそうです。
 さて、「安養寺」の「十一面観世音尊像」については、また後で関わってくることになるので、本記事をさらに読み続けていく方は、頭の片隅に置いておいてくださいね。

 ところでここで葛城氏から

「さて、これから地獄へ行きますね」

と、告げられます。
 参加者一同、少し吃驚しますが(笑)、実は付近にある長円寺というお寺のえんま堂にある閻魔(えんま)王の像を見に行くのです。
 長円寺(のえんま堂)まで続く道が、かつて「えんま道」と呼ばれていたそうです。


 淀の光明寺という寺へ。
 ……とは言っても、現在ではもう、住宅地の中にこのような跡だけしか遺されていないのですが。





 「えんま道」はこの光明寺(跡)から始まるそうです。
 ところでここには、「鳥羽伏見の戦い」に始まる戊辰戦争の慰霊碑も建っています。
 この辺りはかつて、「鳥羽伏見の戦い」が行われたまさに戦場だったので、このような慰霊碑などが幾つも建っているそうです。


 現在では府道126号線と呼ばれる、かつての「えんま道」を歩きます。
 その道沿い…てんというより、道から少しだけ離れた民家の間に小さな神社が。








 「伊勢向神社」とあります。
 この社を拝むと、あの伊勢神宮のある方向へ向かって拝んだことに……つまり、伊勢神宮に礼拝したのと同じになります。
 昔から伊勢参りは盛んに行われてきましたから、こういう神社は全国各地で見かけます。
 こういうものがあるということは、この道はかつて多くの人々が行き交った、交通や流通の要所だったと思われます。


 伊勢向神社のすぐ近くには、大専寺という真宗大谷派の寺院があり、この境内墓所にも戊辰戦争戦死者の納骨地を示す墓石があります。





 真ん中の墓石がそれです。
 写真では刻まれた文字が見えにくいかもしれませんが。
 先述の通りこの辺りは、鳥羽伏見の戦いの戦場だったので、このような墓石や慰霊碑が幾つもあるのですが。
 ところで、この墓石の写真を撮っていたら、他のツアー参加者の方から「えっ、墓石の写真撮るの!? 私らはそんなもん、怖くて撮れへんけど……」などと言われました。
 うーん。
 私は 『京都妖怪探訪』などというものを続けてきて、そういうのも当たり前みたいになっていましたが……。
 でも、その方の「怖い」という感覚の方が普通で、私の感覚の方が麻痺しておかしくなっているのかも(苦笑)。


 府道162号線を、かつての「えんま道」をさらに歩き続けます。
 時々コンビニや小さな商店なども並ぶ、ごく普通の住宅の道という感じです。
 が、民家の間に「天満宮」と書かれた小さな社が。





 ここは「淀新町天満宮」と呼ばれる「天満宮」の、菅原道真を祀った神社のひとつです。


 鳥居をくぐり、境内へ入ってみます。





 ここは稲荷社でしょうか。
 二人の天邪鬼が支えて居るのか特徴的です。


 他にも境内摂末社が。











 2体の狛犬、一方は目が無く、もう一方は顔が欠損しています。
 「松風天満宮(※シリーズ第88回参照)の狛犬の顔が、京都で最も怖い」と言われていますが、こういう狛犬の方がある意味よほど怖いような気もします……。


 奥の本殿へ。








 梅の紋と牛の像。
 どちらもここが「天満宮」であることを示すものです。
 ところでこの牛の顔、縄のようなものが付けられていますが、まるで何かを封印しているかのようにも見えますが……。


 本殿の裏側はこんな風になっていました。





 かつては斜面や湿地帯、運河などがたくさんあったという淀には、こういう高低差のある地形がよく見られる。
これ、何かで聞いたことあったかなあ……?


 ふと、ここで。

「天満宮の法則って、知ってますか?」

という問いが、葛城氏から。
 私は「えっ?」っと、咄嗟に答えられませんでしたが。

 それは「天満宮には十一面観音菩薩が祀られている」ということです。
 この新淀町天満宮本殿の奥にも、十一面観音菩薩像が祀られていたというのです。
 どういうことか。
 昔の、古来日本の信仰は、神仏習合という、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)とが融合しこの国独特の信仰形態でした。





 その神仏習合を支えた考え方のひとつが、「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」です。
 それは、「日本の神々は、実は仏教の諸仏が姿を変えた存在である」という、日本の神道や土着信仰の神々と仏教の諸仏とを同一の存在とする考え方です。





 その神様を仮の姿とし、その本来の姿である仏の姿を「御正体(みしょうたい)」とか「本地仏」とか言うそうです。
 私は「御正体」を「ごしょうたい」などと呼んでしまいましたが(笑)。
 例えば、八坂神社の祭神・牛頭天王(ごずてんのう)の御正体、もしくは本地仏は薬師如来という風に。
 天満天神こと菅原道真の御正体、もしくは本地仏が十一面観音菩薩というわけです。
 もっとも後で調べると、同一の神様に複数の本地仏があったり、結構アバウトなところもあるようですが(笑)。
 ただ、神様と仏様とを同一の存在として祀る「神仏習合」が、長く日本の信仰形態であったわけです。
 しかしながら、明治の神仏分離により、仏教が排斥されていき、神道の神様ともはっきりと分けられた。
 この天満宮に祀られていた十一面観音菩薩像も、その時に他に移されました。
 そしてどこへ行ったのかというと……
 前回記事と、今回記事の冒頭とを思い出してください。
 それが現在、安養寺に祀られている十一面観音菩薩像だというのです。





 こういう街角の小さな神社にも、こういう歴史や背景がある。
 古来の、明治以前の日本には今とは違った形の信仰や文化があった。
 こう考えれば、普段何気なく見過ごしているような、街角の小さな寺社や石碑・石柱などもまた違って見えるかも。

 次にえんま道の辿り着く先、長円寺のえんま堂を訪れますが、今回はここで一旦斬ります。
 今回の最後に、淀新町天満宮の境内に咲いていた椿の花を。






 今回はここまで。
 また次回。




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*『京都妖怪探訪』シリーズまとめページ
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