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どうも、こんにちは。
今年(2019年、令和元年)も京都・夏の風物詩ともいうべき祇園祭の時期がやってきました。
今回は、今年の祇園祭・前祭の宵宮と、前祭に巡行する山鉾のうち、「函谷鉾(かんこぼこ)」を紹介します。
まずはいつもの通りアクセスから。
京都市のほぼど真ん中、四条烏丸の交差点付近。
ここには京都市営バス「四条烏丸」停留所、京都市営地下鉄「四条」駅、阪急電車「烏丸」駅などがあり、交通アクセスには便利な場所です。
普段から大勢の人で賑わっていますが、祇園祭の時期はさらに大勢の人でごった返しになります。
その交差点からすぐ、少し西進んだ四条通り北側に函谷鉾保存会の事務所があり、この時期になりますと、「函谷鉾」が立っています。
そのすぐ下へと行ってみます。
さて、この「函谷鉾」とはどういう鉾か?
そもそも「祇園祭って何?」だとか、「祇園祭の山、鉾、傘って何? その違いは?」等の基本的な知識について詳細は、 シリーズ第291回で、‘妖怪の子孫’こと葛城氏のお話を視聴して頂けたらいいと思います。
さて、この祇園祭の山鉾は、後世になるほど一種のエンターテイメント性も付与されてきたようで、その時代の民衆に人気だった故事やキャラクターを題材にした山鉾が作られるようになったようです。
勿論「函谷鉾」もこうした山鉾のひとつで、この鉾の題材に使われたのは、「函谷関(かんこくかん)の鶏鳴(けいめい)」の故事です。
簡単に言えば、春秋戦国時代・中国の国のひとつ、斉の孟嘗君(もうしょうくん)という君主の故事。敵国・秦の難攻不落の関所「函谷関(かんこくかん)」から、部下の一人である鶏の鳴き真似名人の活躍によって、見事に脱出することが出来た、という、司馬遷『史記』などに記されている、有名な故事です。
この孟嘗君という人物は非常に面白い人物だったようで、どんなものでもいいから何か一芸に秀でた者たちを何千人も食客として養っていたという。今で言えば「個性重視」「一芸重視」の人事をやっていたもので、それで後には魏の宰相になり、最後は諸侯の一人にまで上り詰め、「戦国四君」の一人として語り継がれるようになったようです。
このユニークさがその当時の民衆に受けたのでしょう。
ところで、函谷鉾に上がらせて頂けました。
中では函谷鉾の装飾品なども観られました。
この前懸には、何と旧約聖書の説話「イサクに水を供するリベカ」を題材にした16世紀くらいに作成されたタペストリーだそうです。
これまで使われ続けてきたものと、新調されたらしいものとが並んでいます。
「イサクに水を供するリベカ」というのは、以下の様な説話です。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を信仰する「啓典の民」の始祖・アブラハムは年老いて、息子イサクの嫁を探すため、老僕エリエゼルをナホルの町に派遣します。夕方、町外れの井戸の傍らでエリエゼルは、「水を飲ませてください」と頼んだ時に「どうぞ、お飲みください。お乗り物の駱駝にもどうぞ」と答えてくれる娘が居たら、その娘をイサクの嫁にさせてください、と祈ります。するとそこに水瓶をもった娘・リベカがやってきて、その祈りの通りとなり、エリエゼルはリベカをイサクの嫁として連れ帰ります。
このタペストリーは16世紀にベルギーで製作されたもので当時の最高級品、当時のオランダ貿易商人が徳川将軍家へ献上したもののひとつであり、後に京都の商人に手に渡って、祇園祭の山鉾巡行という大イベントで使用される様になったようです。
これは現在でも国の重要文化財に指定されている貴重品です。
ところで当時、江戸時代と言えば。江戸幕府によって、いわゆる鎖国、キリスト教禁止令という政策がとられていたはずですが、この図柄がまさか旧約聖書に描かれていた説話だというのは、幸か不幸か当時の日本社会では理解されていなかったようですね。だからこそ、弾圧や処分とかされることなく、今日まで遺されていたのでしょうが。
また、こういうものも。
きちんと撮影できてなくてすみませんが。
これも函谷鉾を飾る「見送り」のひとつですが、「金剛界礼懺文見送(こんごうかいらいさんもん)」という、あの弘法大師こと空海の真蹟(しんせき、本人が確実に書いたもの)だと言われます。
山鉾に乗る稚児人形。
神様のように祀られていますが、元々は本物の人間の稚児を乗せていたのが、代わりに稚児人形を載せるようになったそうです。
この函谷鉾は天明8年(1788年)の大火で一度消失し、天保10年(1839年)に復興を果たしていますが、この時、当時この町内には稚児を出せる家も少なく、鉾再建の費用で経済的余裕も無かったことから、「生き稚児を出せるまで当面の間」ということで、当時付近に住んでいた仏師・七条左京に依頼され、左大臣・一条忠香の長男・実良(さねよし)をモデルにして作られた、と伝えられています。
勿論、山鉾の神様として祀られているこの稚児人形も、かなりの価値のあるものでしょう。
祇園祭の他の山鉾にも言えることですが・・・。
文化的・歴史的・芸術的価値のある貴重品まで飾りとして使われ、しかも一般の町衆の手で何百年も大事に保存され続けてきたという驚くべきことが、幾つも観られるのです。
拝観料を払って、放下鉾の中へと入れて頂きました。
中にも面白いものがあり、また鉾の上から眺める街の光景も楽しめましたが・・・。
あれ?
「函谷関の鶏鳴」の故事をテーマにした山鉾だというのに、それを表すものが見当たらない?
・・・っと、思って後から調べてみたら、「函谷関の鶏鳴」の主人公である、斉の孟嘗君の像は、鉾の中心を貫く真木(しんぎ)という柱の上端部分に、雌雄の鶏像と共に祀られているということでした。
山鉾の屋根より高い柱の上端部に、つまり私のような一般人がまず辿り着けない、見られない場所に祀られているということです。
やはり、鉾の本当の神様ということですから、人目には触れない場所に居られる、ということでしょうかね。
そう考えれば納得、しかし少し惜しいような・・・。
函谷鉾を降りて、次の山鉾を目指します。
今回はここまで。
また次回。
*函谷鉾へのアクセス・周辺地図はこちらを参照。
*函谷鉾のHP
http://www.kankoboko.jp/
*祇園祭のHP
http://www.yasaka-jinja.or.jp/event/gion.html
*『京都妖怪探訪』シリーズまとめページ
https://kyotoyokai.jp/
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