今回は京都の夏の風物詩ともいえる、祇園祭をとりあげます。
何故、祇園祭が「京都妖怪探訪」というシリーズに入るのか?
……などと疑問に思われた方もおられるかもしれませんが、大いに関係あるのですよ。
元々祇園祭は、祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)と呼ばれていました。
御霊会(ごりょうえ)というのは、「御霊」という言葉からもおわかりかもしれませんが、いわゆる怨霊など祀り、鎮魂し、その祟りを防ぐための宗教的な儀礼なのです。
平安時代などに広まった、怨霊信仰。
天変地異や疫病の流行などの災厄は、怨霊や悪霊、疫神やもののけなどの仕業と考えられ、それらを鎮めるための儀礼が行われるようになりました。
平安時代の貞観11(869)年、当時流行した疫病を鎮める祈願を込めて、66本の矛を立て、神輿3基を送り、疫神・牛頭天王(=スサノオ)を祀り御霊会を行ったのがその起源だとされています。
室町時代に商工業者(町衆)の自治組織両側町が成立すると、町ごとに風情を凝らした山鉾を作って巡行させるようになりました。
その後、応仁の乱や第二次世界大戦などでの中断はあるものの、現在まで千年以上も続けられています。
つまり、現在では京都の夏の風物詩となっている一大イベントも、元は怨霊や疫神を鎮めるための宗教的儀礼であったわけです。
祇園祭でハイライトとされているのが、17日に行われた山鉾巡業です。
今回は、その前夜祭ともいうべき、16日夜の「宵山」に言ってきました。
阪急電車京都線の烏丸駅。
宵山を迎えているだけあって、多くの人で混雑していました。
そこから京都の中心街ともいうべき四条烏丸の交差点へと上がっていきます。
そうしたら、祇園の宵山・山鉾巡業の準備が出来上がっているようでした。
写真の鉾は、函谷鉾という鉾です。
この鉾は、「斉の国の孟嘗君が敵に囚われるものの、鶏の鳴き真似をする男の芸によって、函谷関から敵地を脱出する」という古代中国の有名な故事にちなんで作られたものだそうです。
祇園祭の宵山・山鉾巡業に使われる山や鉾は、ひとつひとつが神様を祀る社や神輿のようなもので、それぞれが歴史や神話・伝説上の故事にちなんで作られています。
その山鉾ひとつひとつの故事を調べてみるのも、非常に面白いものです。
その山鉾のうちいくつかについても、またとりあげたいと思います。
これら山鉾の存在は、祇園祭を単なる宗教的儀礼だけではなく、ディズニーランドのパレードのようなエンターテイメント性の高いイベントとしての性質をも与えています。
京都の中心部というだけあって、常に多くの人や車でいっぱいです。
夕方6時半になりますと、四条通や烏丸通りの一帯はお祭りのために歩行者天国となります。
しかし、常にたくさんの車が行きかっている中心部の車を皆追い出そうというのですから、大変です。
時間が近づいてきますと、五条署から多くの警察官が派遣され、交通整理が始まります。
五条署による必死の交通整理によって、通りから全ての車両を外に出し、ようやく歩行者天国が開かれます。
五条署の皆さん、本当にお疲れ様です。
いろいろな夜店が並んでいましたが、「金魚すくい」ならぬ「亀すくい」の店も(笑)。
歩行者天国も開かれ、宵山がいよいよ本番に入ってきた時、私は四条烏丸からちょっと西へ。
四条室町から、室町通りと言う小さな通りに入って北上していきます。
小さな通りにも出店が並び、人で一杯です。
おやっ?
その途中、あやしげな面を被り、あやしげなパフォーマンスをしている人の姿を見かけました。
この人の近くでは、シリーズ第3回でとりあげた大将軍商店街の皆さんが出店を出していました。
このパフォーマンスをしていた人も、その関係者の方でしょうか?
さらに北上していきますと、厄除けの粽(ちまき)などを売っているテントがあり、その中をのぞいてみますと……巫女さんが、いや、巫女服姿の娘さんたちが。
おおっ……!
私はヲタクだから、巫女服姿の女性には弱いんだああああっ……!
……って、駄目だ、俺(汗)。
では、気を取り直して。
室町通りの歩行者天国の北の端、室町三条あたりに、ひとつの山鉾が。
これは山鉾のひとつ、「役行者山」です。
実を言えば、今回私がわざわざ室町通りを北上していった目的は、これを見るためだったのです。
この「役行者山」については、次回に改めて紹介します。
長くなりましたので、今回はここまでとします。
続きはまた、次回。
*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm
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