京都の闇に魅せられて(新館)

特別編・筑土神社と筑土八幡神社 @ 京都妖怪探訪(509)





(記事中の写真はクリックで拡大します。プライバシー保護等の為、人の顔部分に修正を加えていることがあります)


 どうも、こんにちは。
 今回から何回かは特別編。
 昨年末頃にIWJの「ロックの会」というイベントに参加する為に東京を訪れました。
 その時、「せっかく東京まで来たのだから、日本三大怨霊の一人・平将門ゆかりの地めぐりをしてみよう」と思い立ちました。
 そのうち、「平将門の首桶が祀られていた」「平将門と菅原道真が祀られている」という「筑土神社」と。
 かつて「筑土神社」があった場所に立ち、「境内のどこかに平将門の足が埋まっている」という「筑土八幡神社」とを訪れました。

 東京メトロ「飯田橋」駅のC1出口から。






 そこから大久保通りを西へ。






 東京新宿メディカルセンターという大きな病院に面した、5本の道が交わる大きな交差点に着きます。






 小さいので見落としそうなので、その交差点の西側辺りに入り口が見えます。








 ここは武蔵野台地の端っこにあたるそうですから、少し高い場所にあります。
 石段を上って境内へ。









 御神木の横に「庚申塔」が。





 「庚申(こうしん)」といえば、日光東照宮の「三猿(みざる、いわざる、きかざる)が有名ですが、これは二匹の猿が桃を食べているという割と珍しい図ですね。


 本殿に礼拝していきます。












 ところで、筑土八幡神社の由緒を見たら……。





 嵯峨天皇の時代に、武蔵国豊嶋郡・牛込の里に、八幡神を熱心に信仰する老人がいました。その老人が夢でお告げを受けて八幡神を祀った祠を建て、さらに“伝教大師”最澄が作った阿弥陀如来像を安置したのが始まりだと伝えられています。
 これはこれで、 『妖怪探訪』シリーズで紹介するにふさわしい話なのですが。

 ここで「あれ?」と思いました。
 平将門の話が出てきません。何故?
 あとでよく調べてみたら、この神社に平将門が祀ってあったわけではなく。
 将門を祀っていた「田安明神」が、江戸時代から昭和21年(1946年)までの間、隣接していたということだったそうです。
 その前は江戸城の北東にあたる「田安門」近く、かつての田安郷にあったので「田安明神」と呼ばれていたのが、徳川家康による江戸城改築に筑土八幡神社の隣に引っ越してきたので、「筑土明神」と改称したそうです。
 うーん、昔お隣同士だったとはいえ、「筑土明神(旧田安神社)」と「筑土八幡神社」とが混同して少々ややこしいです。
 ということは、「筑土八幡神社境内のどこかに将門の足が埋められている」という伝説も、この2社が混同、あるいは同一視された影響なのでしょうか?


 平将門との関係性はそれほど強くはなかったようですが、大都会の中にあって静かで落ち着いた、いいところでした。








 「筑土八幡神社」を後にし、現在の「筑土神社」へと向かいます。


 東京メトロ「九段下」駅の7番出口から出たところにある「九段北一丁目」交差点。









 そこから坂道を上がり、坂の途中、確か乳業会館がある辺りだったかな?









 ビルの谷間に鳥居が立っています。





 ここが「筑土神社」の入り口です。
 主祭神は、天孫降臨神話の主人公ともいうべき「天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)」、通称「ニニギ」です。
 が、ここには日本三大怨霊のうちの二人、平将門と菅原道真が祀られているという、考えてみれば凄い場所でもあるのです。
 さらに、都で晒された平将門の首を納めていたという「将門の首桶」をご神体として祀っていたそうです。大変残念ながら、昭和20年の戦災で神社が焼失して以来、その行方不明となっているようです。
 逆に言えば、それまでは「首桶」はそれまでは確かに存在していたようで、筑土神社さんのHPには、古い記録にはその存在が記録されていると記され、さらに大正の頃に撮影されたという実物の写真も提示されています。
 それによりますと、宮司ですら滅多に目にすることが許されないというもので、宝永5年(1708年)の『牛込津久戸大明神略縁起』には「将門の首は死後770年経た現在(当時)でも朽ち果てることなく安置されていた」という驚くべき記述もあったそうです。


 鳥居をくぐって境内へ。
 近代的なビルの中、もしくは谷間にあるという感じですね。









 筑土神社の絵馬。
 「将門のつなぎ馬」という、将門を象徴する絵柄です。






 本殿へ。











 ここに主祭神の「ニニギ」と、平将門と菅原道真とが祀られています。
 天孫降臨神話の主役と、 日本三大怨霊のうちの二人がここに祀られているわけですが。
  さて、平将門と菅原道真とは実は驚くべき関係があるそうです。
 平将門の乱について書かれた古い軍記物、『将門記(しょうもんき)』に書かれていた話だそうですが。
 「新皇(しんのう)」を名乗っていた将門が、即位の儀式をしている際、八幡神が巫女に乗り移って、菅原道真の霊と会わせます。そして将門は、道真の霊からその地位を譲り受けます。
 ……日本史上にその名を残す怨霊2大巨頭がタッグを組んだ。
 これだけでも驚くべきことですが、何故こんな話が。
 道真が死去したのが延喜3年(903年)、そのおよそ30年後にいわゆる「平将門の乱」が起こっているわけですが、その頃には延長8年(930年)の「清涼殿落雷事件」などが起こって、道真怨霊の祟りの噂が広まり、恐れられていた時期です。
 菅原道真の霊は神格化され、「天満大自在天神」とも恐れられた、当時で言えば「魔神」や「大魔王」みたいな存在と化していたのでしょうが、その後継者を称するとは「厨二病の妄想みたいなものか?」とも思ったのですが(失礼!)。
 しかし当時、朝廷権力や事実上の最高権力者であった藤原氏すら恐れおののいたという「天神・菅原道真」の名は、同じく朝廷権力に反旗を翻す人々にとっては、「英雄」もしくは一種のブランドみたいなものだったかもしれません。
 現在で言えば、反米・反イスラエルの組織が「アルカイダ」を称しているようなものか。あるいは、イラクの独裁者サダム・フセインが、(バビロン捕囚を行った)ネブカドネザル2世の再来を称した真理とも似ているかもしれません。
 そんな平将門と菅原道真が一緒に祀られている神社が存在するという話を知った時、『将門記』に書かれた「将門=菅原道真の後継者」伝説に基づいて二人が祀られているそんな凄い神社があるのか、と大いに驚き、是非とも訪れてみたいものだ、と思っていました。
 それで今回、この筑土神社を訪れたわけですが。
 ただ、さらに調べてみたところ。
 この二人の怨霊神は、最初から一緒に祀られていたわけではなかったようです。
 天慶3年(940年)に、将門の首桶を祀った観音堂から始まり、歴史上何度か移転や改称を繰り返して、昭和29年(1954年)に「世継稲荷神社」のあった現在地へと移転してきたそうです。たまたま「世継稲荷神社」の境内末社の中に、菅原道真を祀った「木津川天満宮」があった為、筑土神社移転の際に将門と共に合祀されたそうです。


 本殿よりさらに奥へ。
 「力石」という石です。





 「力石」とは、若者などが力試しの為に用いるとされる石のことで、ここ以外にも全国の寺社仏閣等で、こういう石が見られます。元々は「疫病や災厄などの侵入を防ぐための神を宿す依り代」みたいなものだとする説もあるようです。


 そして、ここが「世継稲荷神社」です。





 その名の通り、子宝や後継者を望む人々によって信仰されている神社です。
 ここも歴史と由緒のある神社ですが、筑土明神がここに移転してからは、後から来た将門と、元は末社に過ぎなかった菅原道真に主祭神の座をとられてしまったという感のある、少々気の毒な神様です。

 それにしても。
 元々は別に祀られていたとはいえ、日本の歴史・伝説にその名を残る怨霊神の2大巨頭が、『将門記』に記された霊的会見からおよそ1000年後、いくつもの変遷を経てこうして肩を並べて祀られるに至った。
 この事実に、何やら因縁めいたものすら感じるのですが……いかがでしょうか。


 なお、今回の2社だけでなく、都内にあるさらに別の将門ゆかりのスポットへと向かいます。






 今回はここまで。
 また次回。




*筑土神社へのアクセス・周辺地図はこちら




*筑土神社のHP
http://www.tsukudo.jp/




*『京都妖怪探訪』シリーズまとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm




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