越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【47・下】

2013-04-27 23:32:24 | 上杉輝虎(謙信)の略譜

永禄12年(1569)3月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】


26日、出羽国の味方中である土佐林杖林斎禅棟(出羽国庄内の大宝寺氏の重臣。出羽国田川郡の藤嶋城に拠る)から、柿崎和泉守景家・山吉孫次郎豊守・直江大和守景綱へ宛てて返状が発せられ、取り急ぎ御音毫を給わり、本望の極みであること、よって、伊達(羽州長井の伊達輝宗)・会津(奥州会津の蘆名止々斎・同盛興父子)の御取り持ちをもって本弥(本庄弥次郎繁長)御赦免のうえ、息千代丸が(人質として)出仕致されたのは、吾等(土佐林禅棟)においても大慶に勝るものはないこと、この通り、諸口はいずれも思召すままに(静謐を)成し遂げられたのは、御めでたく存じ奉ること、されば、藤懸(越後国瀬波郡府屋。外様衆の大川三郎次郎長秀が拠る)の様子については、委細の旨を進隼(進藤隼人佑家清)から申し越されるにより、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』691号「柿崎和泉守殿・山吉孫次郎殿・直江大和守殿」宛土佐林「杖林斎禅棟」書状写)。


27日、養父である山内上杉光徹(俗名は憲政)が、関東味方中の梶原源太政景・太田美濃守入道道誉へ宛てた条書(朱印状)を使者に託し、覚え、一、(甲州)武田信玄・(相州北条)氏政が対陣し、これにより、輝虎は(越・相)一和が持ち上がった件について、そのまま差し置いてはいられないと語っていること、一、慣例からすれば、おそらくは(相州北条家からの一和の打診は)嘘偽りであろうこと、輝虎もそれを覚悟したうえで交渉に臨んでいるのではないかと思われること、一、北条氏政父子が滅亡に至れば、輝虎自身についても滅亡は時間の問題であること、一、佐(佐竹義重)へ、事情を弁えるように意見してほしいこと、一、信玄は親子の情愛を知らないので、骨肉の間柄にある隣州(駿河国)を我が物とするのを強く望み、それは明らかであるにより、同前の無事を断ち切ったこと、一、関東の諸士が(輝虎の呼び掛けに応じず)在所にそのまま残るのであれば、南・越無事(相・越一和)を喜ばない立場を取るのかと認識するほかないであろうこと、この補足として、(佐竹)義重へも条書に及んだこと、適切な取り成しを頼み入ること、一、輝虎は(揚北の本庄村上陣を)開陣したので、(越後衆に)関東越山の支度を申し付けたにより、安心してほしいこと、以上、これらの条々を申し伝えている(〔岩付太田氏関係文書〕2号「梶原源太殿・太田美濃守殿」宛上杉家条目【印文「地帝妙」】)。


輝虎が用いた獅子の印章であるが、当文書に押された際には獅子の図柄が取り外されている。


※ 当文書は、新井浩文氏の論集である『関東の戦国期領主と流通 ー 岩付・幸手・関宿 ー 戦国期研究叢書8』(岩田書院)の「第一部 岩付太田氏 第五章 岩付太田氏関係文書とその伝来過程」に載録されている。


27日、上野国沼田(倉内)城の城衆である松本石見守景繁・上野中務丞家成・河田伯耆守重親から、取次の山吉豊守(輝虎の最側近)へ宛てて書状が発せられ、あらためて申し達すること、よって、このたび松石(松本景繁)が(本庄村上陣から沼田城に)帰宅し、(輝虎の)御諚の通り、とりもなおさず御両僧(沼田に滞在中の相州北条家と今川氏真の使僧である天用院と善得寺)へ申し渡したので、昨26日に(越府)へ向けて罷り立ったこと、きっと近日中に罷り着かれるであろうと思われること、この頃は立て続けに相州の御父子(北条氏康・同氏政)から御切書が参ったので、いずれも差し上せること、従って、(相州北条父子の重臣である)遠左(遠山左衛門尉康光)・垪刑(垪和刑部丞康忠)が新田(上野国金山城)まで罷り越され、去る16日以来、我等(沼田三人衆)との対談を、しきりに申し越され、日限は来る4月7・8日頃と、夏昌(小川夏昌斎)が申し定め、(新田へ)罷り帰ったこと、各々は(一和について)思慮するところがあるとはいえ、堅い、 (輝虎の)御諚とのことなので、 (輝虎の)御諚に任せ、由信(由良信濃守成繁)と定めた日限になり次第、罷り出でるつもりであること、かならずや対談のうえ、重ねて申し上げること、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている。さらに追伸として、倉賀野(上野国群馬郡)に在陣の甲州衆は退散したそうであると、由信(由良成繁)の書中に記されていること、それは倉賀野寄居(武田方の倉賀野城に対する上杉方の寄居)からの説も御同前であること、なおもって、伯耆守(河田重親)が手抜かりなく処置を、彼口へ申し付けたので、異変があれば、とりもなおさず注進申し上げること、以上、これらを申し添えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』692号「山吉殿 参御陣中」宛「松石 景繁・上中 家成・河伯 重親」書状)。


28日、出羽国の味方中である土佐林掃部助時助から、取次の直江大和守景綱へ宛てて書状が発せられ、藤懸の地が自落した件について、 (輝虎)上様から我等(土佐林時助)のような陪臣にまで御直書を給わり、畏んで拝読し、誠にもって恐悦以外にないこと、家督(大宝寺義増)の所へもとりもなおさず披見に入れたこと、恐れ多いと思われていること、ことさら、同心の面々まで、貴意の趣を示され、これもまた、過当至極に存じ奉ること、この旨を適切に御披露してほしいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』693号「直江太和守殿 参御陣所」宛「土佐林掃部介時助」書状)。

晦日、上野国衆の由良信濃守成繁から、山吉孫次郎豊守へ宛てて書状が発せられ、あらためて申し上げること、もとよりこのたび南方(相州北条家)から和談の件について、申し入れられたところ、直大(直江景綱)と御相談し合って(輝虎へ)御取り成しされたそうであると承り、最も重要な処置に及ばれたのは至当であること、氏康父子ならびに新太郎(藤田氏邦)方も、ありがたい対応であると思われていること、愚(由良成繁)においても祝着千万であること、なおもって、急速に御越山の御稼ぎは、ひとえに(山吉の)御手前に懸かっていること、今後は、(山吉に)万端の御取り成しを頼み入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』694号「山孫 参」宛由良「信濃守成繁」書状)。

同日、上野国金山城に滞在中の遠山左衛門尉康光から、城衆の発智右馬允長芳へ宛てて、初信となる書状が発せられ、これまで申し交わしていなかったとはいえ、一札をもって申し上げること、もとよりこのたび越府へ氏康父子からの御一儀について、その表(沼田)で格別に御奔走されたと、(氏康父子は)承り及ばれて、祝着に思われていること、(本来であれば)早々に拙者(遠山康光)が参上して、その旨を申し述べるべきところ、松石(松本景繁)が御帰庄されていないので、当地で延引致したこと、かならずや近日中に参上すること、従って、氏康から一荷・一種が贈られること、(氏康の)直書を拙夫(遠山)が持参すること、なお、(詳細は)上式(上野式部少輔か)・志津野(一左衛門尉。藤田氏邦の家臣)の両人が申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』695号「発智右馬允殿 御宿所」宛「遠山左衛門尉康光」書状写)。



この間、同盟の交渉相手である相州北条氏康(相模守)は、3月18日、上野国沼田城(利根郡沼田荘)に滞在中の天用院・善得寺へ宛てて返書を発し、14日の注進状が、今18日に到着し、つぶさに披読したこと、(輝虎は)越・相和融に異論はないとの趣であり、彼の書中を披読し、本望満足であること、陣中(氏政による駿河国庵原郡の薩埵山陣)へとりもなおさず申し越すこと、きっと松石(松本景繁)が沼田に帰荘するであろうこと、遠山左衛門(左衛門尉康光。北条氏康の側近)・垪和刑部(刑部丞康忠。北条氏政の側近)も(上野国新田郡の金山城)に参着するであろうこと、このうえは彼(輝虎)の御出馬が、一日も早く挙行されるように催促を、遠左(遠山康光)と相談し、(沼田)三人衆に申し述べられるべきこと、よって、(北条氏康・同氏政の)誓詞の御返事を受け取り次第、まず夜中であろうとも、(誓詞を)写し取り、遠左(遠山)が早馬をもって、夜通しで寄越すべきこと、とりわけ、このたびいよいよ入魂を確かなものとするため、相応の血判については、遠左(遠山)に申し含めること、(沼田)三人衆と相談し、その意見により、両僧が証人として立ち会うために逗留を続けるべきこと、なお、松石(松本)が帰庄してから、(越陣の)様子を聞き届けて、重ねて申し越すべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』690号「天用院・善得寺」宛北条「氏康」書状)。


これより前に、相州北条家の許に将軍足利義昭から御内書が届き、義昭の入洛に奔走するようにとの下知を受けたが、甲州武田家の駿河国乱入により、返答する余裕がなかったところ、奥州へも向かう上使が到来したのに伴い、4月朔日
以降に、氏康・氏政・藤田氏邦・可直斎長純が義昭側近の細川兵部大輔藤孝へ宛てた返状をまとめて送っている。

17日、氏政の兄弟衆である藤田新太郎氏邦が、細川兵部大輔藤孝へ宛てた返状を認め、 (足利義昭)の入洛について奔走するべき旨、 御内書を下しなされたこと、過分の極みで、恐れ多い思いであること、氏政は忠信を励まれべき覚悟であるにより、我等(氏邦)においても、なおざりにしない所存であること、されば、駿・甲・相三ヶ国の間の鉾楯により、昨年から駿州の興津(庵原郡)と号する地に在陣しているなかで、御内書を受け取ったこと、ここより申し上げること、適切な御心得に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1182号「細川兵部大輔殿 御返報」宛藤田「氏邦」書状【封書ウハ書「細川兵部大輔殿 御返報 藤田新太郎 氏邦」】)。

21日、相州北条相模守氏康が、細川兵部大輔藤孝へ宛てて返状(進上書)を認め、御内書を謹んで頂戴致したこと、もとより、 御入洛の件について、(このまま上使の森坊が奥州へ下り)奥口の面々にも、 御内書を下しなされること、森坊が(奥州へ)下向されるのに伴い、氏政の書状を差し添え、 上意の趣を(奥州諸士へ)申し遣わすこと、委細は森坊が申し上げること、この旨を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1185号「進上 細川兵部太輔殿」宛北条「相模守氏康」書状)。

同日、相州北条氏康が、細川兵部大輔藤孝へ宛てて、別紙の書状を認め、 御入洛の祝儀として、内々に代官を差し上せる覚悟であったところ、駿・甲・相三ヶ国の間で不慮の弓矢が起こって以来、氏政は駿州に向かって出張し、とりわけ、去る正月27日に興津山(薩埵山)へ打ち出し、小河一瀬を挟んで、甲(甲州武田軍)と対峙し、誠に昼夜の合戦で多忙を極めていたので、なおざりにしていたわけではないところを、御取り成しに預りたいこと、そうしたところが、輝虎と氏政の和融が半ば落着したので、本意を遂げるのは間近であること、とにかく夏中にはかならずや代官をもって御礼を申し上げること、これらの趣を適切に御披露を頼み入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1186号「細川兵部太輔殿 御宿所」宛北条「氏康」書状写)。

26日、薩埵山陣の相州北条左京大夫氏政が、細川兵部大輔藤孝へ宛てて返状(進上書)を認め、 御入洛の件について、奥口の面々に、 御内書を下しなされること、森坊が(奥州へ)下向されるので、上意の筋目を(奥州の諸士へ)申し遣わすこと、この旨を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1193号「進上 細川兵部太輔殿」宛北条「左京大夫氏政」書状写)。

同日、相州北条左京大夫氏政が、細川兵部大輔藤孝へ宛てて、別紙の書状(謹上書)を認め、 御入洛の件について、奥口の面々に、 御内書を下しなされること、その意を心得て(奥州の諸士へ)申し遣わすこと、委細は森坊が演説されること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1194号「謹上 細川兵部大輔殿」宛北条「左京大夫氏政」書状写)。


(4月朔日)、可直斎長純が、細川兵部大輔藤孝へ宛てて返状を認め、 御内書を下しなされたこと、過分の極みで恐れ多い所存であること、昨年以来、隠遁の身であり、格別な馳走を致すのは難しいこと、何かの折に、これらの趣の御取り成しを頼み奉る所存であること、なお、森坊が演説されること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1196号「細川兵部大輔殿 参御報」宛可直斎「長純」書状写【包紙上書「細川兵部大輔殿 参御報 可直斎長純」】)。


26日、相州北条氏康が、他国衆の阿久沢左馬助(上野国衆。上野国勢多郡の深沢城に拠る)へ宛てて書状を発し、越・相和融について、使者の送迎の件を、(関係各所に)精を入れるように申し付けてくれたそうであり、はなはだ喜悦であること、ますますの奔走が肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文後 北条氏編二』1192号「阿久澤左馬助殿」宛北条「氏康」書状)。


やはりこの間、越・相同盟が持ち上がったことで微妙な関係となった関東味方中のうち、3月17日、常陸国衆の多賀谷祥聯(俗名は政経。常陸国関郡の下妻城に拠る)が、房州里見家の宿老中へ宛てて書状を発し、先頃に彼方(里見家の使僧)を越府へ差し越されたのに伴い、(その使僧が越府からの帰り道に)御状を届けてくれたこと、過当至極の思いであること、当口の路次の安全を確保し、支障なく通れるにより、(使僧は)このたび(里見義弘が拠る上総国天羽郡の佐貫城へ)帰参するので、越国の様子をよくよく聞き届けられるべきこと、佐竹(常陸国太田の佐竹義重)においては近日中に小田(常陸国筑波郡)へ向かって御出馬するための御準備の最中であること、言うまでもなく、(佐竹と)仰せ合わされたうえで、その時機の御出張が、吾等(多賀谷祥聯)においても適切であると思われること、殊に簗中父子(下総国関宿の簗田中務大輔晴助(洗心斎道忠)・同八郎持助)も使僧をもって申し届けられたこと、この口の様子も彼方(里見家の使僧)が申し届けられること、つまりはただ今の御対処に極まること、委細は御使いが申し届けられるにより、(この紙面は)省略すること、この趣を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1324号「佐貫 御館」宛「多賀谷入道祥聯」書状写)。

19日、常陸国片野(新治郡)の太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正)の族臣である太田下野守資叶が、房州里見家の家宰である小田喜正木弥九郎憲時へ宛てて返状を発し、先日は(正木憲時から)御懇書を給わり、恐縮し切って、御返報を届けさせてもらったこと、(返報が)参着したのかどうか案じていること、越府からこの御使い(里見家の使僧。越府から戻る途中に東方と関宿に立ち寄った)が罷り帰られること、早速にも(佐貫へ)戻られるべきと思われていながらも、関宿・下妻にも立ち寄られて、(当地へ参り)近日中に当地を罷り立たれること、(越後国の様子は)本庄の叛乱については、(本庄は降伏を)懇望しており、(輝虎は)過半落着したと語っておられ、肝心に思われること、されば、当方(佐竹氏)は困難に見舞われていて、御当方(房州里見家)へ何度でも(支援を)懇望したいとの仰せであること、どうか旦那父子(太田道誉・梶原政景)が本意を遂げられるように、(房州里見家の)御精励は今この時であること、重ねて御出馬されて、金(下総国葛飾郡風早の小金)の近辺に御馬を立てられるならば、旦那は関宿へ罷り移られ、(さらに里見軍の)御陣場へ出向いて御談儀し、ひとえに岩付の本意を遂げるところは、(房州里見家による)一切の御取り計らいに極まること、詳しくは彼の御使いの口上に頼み入る、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1325号「正木弥九郎殿」宛「太田下野守資叶」書状写)。

26日、房州里見義弘(左馬頭)が、太田道誉・梶原政景へ宛てた条書を使者に託し、覚、一、駿・甲両国の関係が破れたのは、(注視するのが)肝要であること、この補足として、(今川)氏真に氏康父子は同心した件、一、輝虎の御越山は極まったこと、この補足として、口上、相州から(和睦打診)のこと、この補足として、口上、以上、これらの条々を申し伝えた(『戦国遺文 房総編二』1326号「道誉・梶原源太殿」宛里見「義弘」覚書写)。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、23日、ようやく美濃国岐阜城(厚見郡)に到着した使者の市川十郎右衛門尉(直参衆)へ宛てて書状を発し、一、信・越国境は融雪の時期を迎えて人馬の往来が自由になったとの報告が寄せられたので、こうなると輝虎が信州へ出勢してくるのは確実であり、抜き差しならない状況に陥るため、駿河国薩埵山(相州北条陣)へ攻めかけて興亡の一戦を遂げるつもりであるが、輝虎の信州出勢を押さえるため、将軍から甲・越和融の下知を引き出し、(織田)信長の仲介を得たいので、岐阜から信濃国長沼城(水内郡)へ特使の急派を信長に催促するべきこと、一、(徳川)家康は一途に信長の意見に従う人物であり、互いに協力して今川氏真を没落させたゆえ、家康の遠州一国支配に異議を唱えるつもりはないが、信長による掛川(今川氏真)と岡崎(徳川家康)の和融の調停については得心がいかないため、信長の料簡を聞き出すべきこと、一、この味方のいない苦境のなかで、信長に見捨てられれば信玄の滅亡は必至であり、こうした現況をよく弁え、信長の理解を得られるように言葉を尽くすべきこと、これらの三ヶ条を示し、とにかく、その表に於ける対応に疎意があってはならないこと、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文武田氏編二』1379号「市川十郎右衛門殿」宛武田「信玄」書状写)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)

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