故親鸞聖人御物語之趣、 所留耳底聊駐之 唯圓
親鸞は、父母の孝養 ( きょうよう ) のためとて、一返にても念佛もうしたること、いまだたふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に佛になりてたすけさふらふべきなり。わがちからにてはげむ全にてもさふらうばこそ、念佛を廻向して父母をもたすけさふらはめ、多ゞ自力をすて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、陣痛方便をもて、まづ有縁を度するべきなりと、云々。
亡き父母を慕うて追福を思うのは、子孫の至情である。けれどもすでに死生への境を異にしている。そこには凡夫自力の及ぶことのできないものがあるのである。さらに翻って思うに 「 一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」 とある。それこそ仏教の人間感として忘れべからざることである。されば念佛者は、急ぎ佛となって、まづ縁ある者を済うべきである。念佛はそのために与えられたものであって、父母の追善のために用いられるべきものでない。そうすることは他力の法を自力の善となすものとなるからである。これは念佛の徳を限定するものはない。かえって死生の境を超えて、無限に開け往ゆく道を思い知らしめるものなり~
一鍬下ろして、なまんだぶつ ~ 、なまんだぶつ ~ と、一鍬打って、なまんだぶつ ~ 、なまんだぶつ ~ と、口に出しても心で念じても、多少は落ち着きをとり戻す・・・






