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Precious Memories 古松盦 プレシャスメモリーズ

心に染み入る地酒・美酒の醍醐味、越後快酔の夕べを楽しむ~。

無尽蔵中無一物

2022年10月20日 | 日記
・・・宋の梁楷の描いたという「 栗の図 」が床の間にあった。たて二尺四、五寸くらい、横幅で紙質分からないほど古びた懸物であったが、それを見ていると、彼?はふしぎに半日でも飽くということを覚えない。『 御主人のお描きになるような絵は、とても素人には及びもないという気がしますが、これを見ていると、これくらいなものなら素人の私にも描けるというような気がしますな 』彼?がある時にいうと、『 それは、あべこべでしょうと 』主人?は答えて、『 私の絵くらいな程度までは、誰にも行き得る境地といってもかまいませんが、この辺になると、道高く、山深く、非凡過ぎて、ただ学べば行けるという境地ではありません 』といった。『 ははあ、そうでしょうか 』~そういうものかと、彼?はこれから折あるごとくこの絵を眺めていたのであったが、御主人?にいわれて見てから、成程、それは一見単純な墨一色の祖画に過ぎないが、その中に持っている「 単純なる複雑 」に彼?もようやく少しずつ眼をひらいて来た。二個の落栗がざっと描いてあって、一個は殻を破っており、一個はまだイガの針を立てて固く殻を閉じている。それへ栗鼠が飛びついているだけの構図である。栗鼠の生態は、いかにも自由性に富んでいて、人間の若さと、若さの持つ欲望とを、そのまま、この小動物の姿態に表している。 ~  しかし、栗鼠の意欲のままに、その栗を食らおうとすれば、イガに鼻を刺され、イガを恐れていては、殻の中の実は食うことができない。作者は、そんな意図はなく描いたのかもしれないが、彼?はそうした意味にもこれを眺めてみるのだった。絵画を見るのに、絵画以外の諷意とか、暗示とか、そんな考え方をして煩うのはよけいなことかも知れないが ~ と思いつつも、この絵は「 単純なる複雑 」のうちに、墨の美感や画面の音階のほかに、人をして思わず黙想に遊ばしめる無機的な作用を種々に備えているのだから仕方がない。・・・・・

































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