それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

”シルバーシート”方式教育の否定

2018-06-19 01:25:06 | 教育

 幼児の虐待、殺人とか闇サイトによる誘拐、殺人とか、小学生の拉致殺人、だれでもよかった殺人とか、安易に人の命を奪う事件が続いていて、呆然とする。犯人の多くは、「命」というとき、自分の命のことは、それなりに大事に思っているらしいのが皮肉である。
  「命が大切である」ことは、人格異常者でないかぎり、だれでも分かっているはずである。が、多くの場合、「頭で分かっている」状態のようである。「悪いことをしてはいけない」という教訓のレベルであって、身に染みて、リアルな問題として認識できているわけではなさそうだ。
 話題になっている道徳教育の教科化は、このような問題状況の解決に貢献できるだろうか。おそらく、徳目についての知識は増えるであろうし、寓意、教訓を内包した作品にふれて、それなりに感銘も受けるかもしれない。しかし、それは、「シルバーシート」方式の教育であり、対症療法的な対策の域をでない。
 特別に人格、性格に問題がない限り、「悪いこと」がどのようなことであり、「してはいけない」ということについての知識は持ち合わせているだろう。にもかかわらず、悪いことに手を染めるのはなぜか。それは、知識を超えて、実感として、身に染みて理解できていないからであろう。週に1時間や2時間の特設の時間に教育を受けたからといって、実感をと伴う、いわば生活感覚として、人間として、考えるまでもなく当然のこととして身につく教育が実現するであろうか。人権教育や平和教育についても同様である。後ろ指を指されないように、一応、指導はしましたといういいわけはできる。電車やバスに弱者向けの、わずかな席が用意されているように、無視してはいないのである。大事なことを教育しているという態度表明であり、「免罪符」なのである。そのシルバーシートに、学校でもっともらしい授業を受けた、しかも学割の定期券を持った若者たちが、堂々と座ってはいないか。人権教育を受けた学校にいじめはないか、自殺者は出ていないか。
 学校は、授業を含めたすべての学校生活の中で、人権意識について学習できていなくてはならない。平和についての授業を受け、講演を聴くことも無駄ではなかろうが、生活の中で、他者の人格、文化を尊重し、命を守るということを実感できる連続的な場面が存在しないことには、頭では分かるという限定的な理解に終わる。シルバーシートも一定の意味はあろうが、すべての席がシルバーシートになることなしに、弱者への配慮は限定的である。その意味で、学校は、命の教育をする場として、学校生活のすべてが、命の尊厳を実感する理想的な場でなくてはならない。つまり、特設の、わずかな時間配分をされる細切れ授業では不十分なのである。学校は、世間離れしているといわれようが、大人の世界とは異質であるといわれようが、人間が生きていく上で理想的な生活の実践の場でなくてはならない。悪いことを憎み、何の前提もなくよいことが実践できている場でなくてはならない。こういう場の構築、こういう場で生きることは大変なことである。教育が専門的な資格を有する者によって行われるのは、こうした難事業を実現するためには当然のことである。気の重くなるような職業であるし、しばしば失敗もするであろうし、投げ出したくもなろう、こういう仕事を選んだことを呪いたくなることもあろう。他の職業にも似たようなところはあろうが、教育は、専門的な訓練を受け、資格を取得した者によってのみ行われる営為である。教育の道を選んだ限りは、嘘くさくとも、人間の理想の実現のために力を尽くさなくてはならないのだろう。しばしば耳にする、教師によるいじめ、暴行等は、教育という世界における異物であることはいうまでもない。

 (それにしても、時々出現して、世間を震撼させる「誰でもいいから殺したかった」という異常かつ無法な人間をどうとらえればよいのか。正常な精神状態でないと判定されれば、法的責任を問われることなく(措置入院等を経て)、いずれ社会に帰り、「また人を殺したくなる」と嘯くような人間をどう捉えればよいのか、そういう人間と隣り合わせた場合に、自らや大切な人をどう守るのか、守れるのか、私には答えが見つからない。)