近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
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三島由紀夫「サーカス」研究発表

2013-06-05 21:23:21 | Weblog
こんばんは。6月3日は三島由紀夫「サーカス」の研究発表でした。
発表者は2年の藤田くんと松尾くんで、司会は今井でした。


発表の副題は「サーカスを去る団長」です。発表内容の要約と結論をまとめて述べさせていただきます。
団長は少年の逃亡後の高貴な態度を見ることで、自分が体験することが出来ない「逃亡」への憧れを抱く。ここで、団長にサーカスを終わらせるという新たな目標ができた。また、この場面で団長が「王子」にのみ注目していることと、王子にだけ演技を失敗させる細工をさせていることから、団長にとってはあくまで「王子」の死が演技のメインであるといえる。
しかし、団長は少女が初めて綱を渡りきるという予想していなかった演技に魅せられてしまう。この時点で団長は「危機と其日暮しと自暴自棄の見事な陰翳」をそなえるサーカス人間であるため生を志向する演技を素直に賞賛することは出来ないが、少女を注視し魅せられていたということから、生を志向する演技をすばらしいと感じることが出来ていると考えられる。
そして「王子」の死というサーカスの終わりにふさわしい最高の演技が成されたことで団長はサーカスという幻想世界を終わらせ逃亡することが出来る。それと同時に、団長と言う債務から自由になったため、菫の花束を少年と少女の棺の上に放り、生を志向する演技を賞賛することができるようになった。

学部生や先生方からの指摘・質問としては、団長は慕っていたであろう「先生」と敵側にある女間諜との遺品が一緒に発見されたことはどのように受け取り、何を抱えることとなったと考えられるか。少なくとも団長にとって特権的な出来事であり、「先生」と女間諜、少年少女の重なり合いを見ていくと読みが広がる。団長とはどのような人物なのか、団長にとってサーカスとは何なのかを見直してみるべきではないか。生を志向する演技を団長は賞賛していると本当に読めるのか。「サーカス」という作品を作り上げている言葉、そこから喚起される美的イメージや空間性をどのようなものだと考えているのか、などでした。


今回は本文検討だけではなく、研究発表への姿勢や先行論の扱い方、作品内に使われている言葉の同時代的な意味を調べる必要性なども先生方からご指摘いただきました。先行研究者や作品、発表への礼儀ということに加え、近研で自分の発表として扱える作品は1年で4作品程度しかないので、ひとつひとつの発表を納得のいくものにしていきたいと思いました。


次回の発表は三島由紀夫「美神」です。
では、失礼します。

3年 今井