近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

椎名麟三「深夜の酒宴」 第二週目

2010-07-15 20:51:15 | Weblog
司会を担当しましたハギワラです。更新が遅くなり申し訳ありませんでした。
今週は椎名麟三「深夜の酒宴」第二週目の発表でした。

発表内容は、
○本文中で何度も使われている〈堪える〉について
○雨と建物の描写について
○仙三と僕の関係について
先週質疑応答の際に指定された部分を主に検討したものとなりました。

まずは〈堪える〉という語句について分析をされていました。
本文中には31回〈堪える〉(〈僕〉を主体とするものがそのうち27回)が見られます。物語の中で多く頻出しているため、〈僕〉を解釈するために欠かすことのできないものでありましょう。特に〈重い〉と感じている時に同時に起こる感情であること、〈僕〉は〈堪える〉ことしかできず、それしかできない自分が〈堪え〉がたいという連鎖を起こしていることを指摘されました。
続いて雨は、僕の心地よさを破るものであり、建物の〈陰気な調子〉を増幅している。またその〈陰気〉さは不変であることで、〈僕〉の苦悩を表出することも幸福で居続けることもできない……。先週の発表でも雨について分析をされていましたが、今回は建物と結び付けて解釈をされていました。
仙三と〈僕〉の関係性からは、アパートを統治している仙三と罪人とされている〈僕〉や、仙三の身体的な特徴(国民服や不自由な右足)に焦点をあてていました。

質疑応答では、最初にまとめの仕方について質問がありました。発表者の方は2つ大きなまとめをしてくださっていましたが、それぞれが違う方向を向いているようでした。それぞれ検討した箇所ごとにまとめてくださっていたのですが、まとめとしての役割を果たしていないものとなっていました。最終的にどこに帰結させていくか、今回の発表だけでなく常に注意しなきればならない問題でしょう。
また、〈堪える〉を頻出させることでどのように解釈することができるのか問題となりました。と同時に〈僕〉の根源的な部分に迫る質問でもありました。〈僕〉は積極的又は消極てきに〈堪え〉ているのか?なぜ〈堪える〉ことは生きることなのか……実存主義的なテーマではないのかか?〈堪える〉を巡りさまざまな見解が展開されました。
仙三と〈僕〉について、発表者は二人を同じものとして捉えていましたが、本当にそれでよいか?という指摘がありました。例えば「仙三の〈堪える〉は能動的に選んでいる」しかし「受動的に〈堪える〉〈僕〉」と対比されている。また戦中・戦後と関わり方の違いが本文から読み取れるのではないか。対比的でありながら同一的であるという指摘がありました。

最後に戦後文学に出てくる〈無関心〉という言葉は、今と違う無関心であるから検討が必要との意見もありました。他にもたくさんの意見が交わされ、先週に引き続き濃い2時間を過ごすことができました。

前期の例会は本日が最終日となりました。発表者のお二人、参加者の皆様おつかれさまでした。風邪が流行っているので(私の周りだけかもしれませんが…)体調を崩されないようお気をつけください。