カイロじじいのまゃみゅむゅめも

カイロプラクティック施療で出くわす患者さんとのやり取りのあれこれ。

スタンレー・ミリグラム 『服従の心理』 山形浩生訳 

2012-05-11 12:34:17 | 本日の抜粋

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一部の人たちは、ナチの例をまじめに考えようとしない。われわれは民主主義社会に住んでいて、専制主義国家にいるのではないからだ。でも現実にはこれで問題がなくなるわけではない。というのも、問題は心理的態度群あるいは政治的組織の一種としての「専制主義」ではなく権威そのものだからだ。専制主義は民主主義的な慣行に取って代わられるかもしれないが、権威そのものは、いまわれわれの知るような形を続ける限り、廃止することはできない。
 民主主義では、人々は多数決の選挙を通じて役職に就く。だがいったんそのその地位になっていしまえば、他の手段でその地位についた人と比べて権威の度合いが変わるわけではない。そしてこれまで何度も見てきたように、民主主義的に設けたれた権威の要求だって良心と葛藤を起こすのである。何百万人もの黒人の輸入と奴隷化、アメリカインディアンたちの殲滅、日系アメリカ人の収容、ベトナムでの民間人に対するナパーム弾の使用などは、すべて民主国の権威から発した残酷な政策であり、どれも予想通りの服従をもって応えられた。いずれの場合にも、それぞれの行動について道徳的な懸念が述べられはしたが、一般人の典型的な応対は命令に服従することだった。
 アメリカ中の大学で、この服従実験について公演するたびに驚かされるのだが、若者たちは実験の被験者たちの行動に仰天して、自分なら絶対にそんな行動はしないと断言するのに、その同じ人が数ヶ月後には軍にとられて、被害者に電撃を加えるのとは比べものにならないような行動を、良心の呵責一切なしにやってのけるのである。この意味で、かれらは他の各種の時代に権威の目的に身を委ね、その破壊的プロセスの道具と化した人々と比べて、善悪の面で大差ないのだ。

スタンレー・ミルグラム 山形浩生訳 『服従の心理』より 河出書房新社

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3月11日の震災後、これまでの日本にはびこる、ありとあらゆる悪弊が一掃され、厳しい現実を前にしつつも、一種、清々しい日本が再生するものとばかり思っていた。

しかし、そんなのは妄想でしかないようだ。

立ち塞がる壁の一つは、権力への服従、権威への服従、利権への服従、、、。

そう思って手にした本だった。

この本の実際は、大学教授の権威のもとに、崇高な実験目的のためにと、何ら訓練のされていない普通の社会人が、知らない他人にどれだけの電流が流せるかという実験に対する考察を展開したものだ。
何しろ、多くの被験者は、良心の呵責に耐えながら、またある者はただただ命令に忠実であろうとして、生命の危険が充分に考えられる電流を流してしまったのだ。(もちろん実験では、電流を流される人の、実際に電流が流されていると錯覚させる演技によってなされた)

人は権威の下、責任を権威者に委ねることによって、いくらでも残酷になれることが証明された実験報告だ。

ナチのホロコーストは異常な残忍な人がやったことではなく、ごく普通の人間の手によってなされた行為だった、ということだ。


今回の地震、津波、原発事故後の対応に、国民の信頼を裏切った権威への服従が見え隠れする。
そこには我々の中にある服従の心理もあるような気がしてならない。

誰が主人公なのか?
改めて問い直すことから始めなければならない。
善良な人々の傷口が剥き出しになったままに野ざらし状態を続けている、、、。


訳者、山口浩生のあとがき、それも後書きの蛇足として書かれた「服従実験批判」という文章が面白かった。
肥大化した社会においては権威の存在は不可欠だとし、その権威が信頼に足るもので有り続けるために、相互監視やチェックシステムの機能化の必要性を短い文章の中で提唱している。


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