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chieeと私のバトルな日々

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コメントは公開していませんが、私にはメールで届くので、すべて読ませていただいています。ご意見・ご感想・ご質問、何でもお寄せください。必要に応じて、記事、メール、あるいはお会いしたときにお返事させていただきます。

メキシコに行きました!(6)

2011-10-27 23:13:25 | daily
何を今さら…ですが、下書きを2週間もほったらかしにしていました。

いくつか感想を書きます。(後半にchieeも書いています)



私はとても汗かきなのですが、向こうではずっと素足でいられました。

kazuが、ハンドタオルが売っていない。と言うのです。

アメリカのトイレには必ずペーパータオルがあります。

汗もかかないから「ハンカチが要らない文化」なのかも。

その他の印象。

●超肥満の人が多い。

そりゃあ、あの量を食べれば当然だと思う。

果物も含めてあれだけたくさんの炭水化物を食べるし、車社会だからというのもあるのかな。

欧米では心筋梗塞などの死亡率が高いと確か先生が言っていました。

●物乞いが多い

本当に何度も物乞いの人を見ました。

特にメキシコではたくさん見ました。

スラム街の横も通ったけど、メキシコの経済格差はかなり大きいと思います。

物乞いじゃないけど道での物売りの人も多いですね。

ストリートパフォーマーも、楽器を弾く人も、Tシャツを売っている人も、みんなチップで生活しています。

●自動販売機がない!

以前もそうだったけど、自動販売機がありません!

空母ミッドウェイの横にあったのは大きな鍵がかかっていました。

●カラフル

とにかくスーパーも町並みもカラフルです。

色の感覚はやっぱり日本とは違う。

食材は豊富で、チーズも野菜も果物もカラフルでした。

●道路が整えられていない(by chiee)

日本ではいろんな所で道路が整備(って言うのかな…?)されてい(る気がし)ますが、

あっちではあまり見なかった気がします。下向かなかっただけかもですが。

●空がキレイ(by chiee)

こないだ理科で観察したらそのときは日本でも雲がなかったんですが、

あっちではほとんど毎日雲なし!みたいな感じでした。

お母さん曰く「絵はがきやな」という…

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戦争について―ビルマの赤い土―(1999/8/28)

2011-10-27 23:01:59 | daily
ずっと以前に作っていたホームページのために書いた文章です。

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今、戦争といえば遠い国の出来事、そして今や科学技術の粋を集めた闘いとなりました。

日本では、娯楽番組の合間に戦地での悲惨な状況がリアルタイムで報道されています。
それは、何とも複雑な思いがします。けれども、現実には、近年になればなるほど、戦地に赴く軍人より、ただそこに生活している民間人の犠牲者の方が増えていっているという事実をどれほどの人が知っているでしょうか。
 
この日本でもたった50年前にあったできごとなのに、語り継ぐ人も少なくなって、徐々に風化しつつあります。私の母は終戦の時(1945年)10才でした。昔はよく戦争中のことを話してくれました。そんな中で、ひとつだけ印象に残った話があります。

私の祖父…母のお父さんは、ビルマで戦死しました。ビルマは戦況が激しく、たくさんの人が戦死した所で、祖父もその中のひとりでした。
 
ずっと以前のことです。母とふたりで「ビルマの竪琴」という映画を観に行きました。「ビルマの竪琴」は、ある作戦で部隊を離れた一兵士が戻る途中、川のほとりに横たわるたくさんの日本兵の屍をみて愕然とし、その兵士たちを弔い供養するために、僧侶となってビルマに留まる決心をする。音楽家の隊長の下、「歌う部隊」として捕虜生活を送っていた仲間たちと何度か接触があり、決心が揺らぐけれども、結局正体を明かすことなく、かたくなにその信念を貫き、部隊が日本へ旅立つのを見送る…という優しく悲しいお話です。
 
この物語は過去に2度映画化され、母と映画館に観に行ったのは、2度目のものでした。後に最初に映画化された方も観る機会があったのですが、途中の内容がどうであったかは忘れてしまいましたが、冒頭はほとんど同じでした。
それは、短いフレーズで次のようなテロップで出ました。
 
 「赤い。赤い。ビルマの土は赤い。」
 
映画を見終わって母がぽつりと言いました。「おとうさんのお骨(こつ)が帰ってきた時、骨箱の中を覗いたら骨なんか入ってなくて、ビルマの土がひとにぎり入ってた。そういえば、確かに赤い土だった…あれは、ビルマの土だったんだ」と。

母は、どんな気持ちで映画を観ていたでしょうか。本当に本当につらかったと思います。戦死の通知があってからも、風で戸がガタガタする度に「おとうさんだ!!」と言って家族みんなで起きあがって玄関に向かったと、そんなことも話してくれたことがあります。

戦争は人の死をひとくくりにしてしまう。でも、ひとりひとりの人生があって、家族があって、その死を悲しむ人がいる。なのにどこでどんな風に死んだのかも分からない。ビルマからでも帰還した人もたくさんいるというのに、その生死の境は何だったのだろうか。そんなことも分からない。それを映像として、リアルに観ることは本当に本当につらかったと思います。

戦争のために母の運命もずいぶん変わってしまいました。母は、祖父が死んだ時の倍の歳になって、私は祖父が死んだ時と同じ歳になりました。時間では癒されないものがある…戦争を体験した人の心の中にあるものは、決して癒されることのない何かが残るような気がします。
 
8月9日に長崎に落とされた原爆は、実は私のふるさと北九州に落とされる予定でした。北九州は、八幡というところに製鉄所があったので、ターゲットにされたのでしょう。その日は朝から曇りか雨だったとかで、急遽、爆撃地は北九州から長崎へ変更され(造船所があったからでしょうか?)長崎の悲劇は起きました。

私の母が当時住んでいた所は、製鉄所と、湾を挟んで対岸の山の斜面にありました。もし、北九州に原爆が落ちていたら…私がこの世に生を受けることはなかったかもしれません。戦争は多くの人の運命を翻弄し、様々な悲劇を生みます。

どんなに正当化しても、この世で、許される戦争・正しい戦争というものは絶対にないということ…それだけは、ひとりひとりが胸に刻んでおかねばならないように思います。

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