本日2月14日(日)、富士市の消防防災庁舎の大会議室で、清水国際高校の前田利久先生を講師とする文化講座「駿東・北伊豆の戦国時代」が開催され、城郭について直接触れた講演ではありませんでしたが、当会からも水野会長、小川理事、私望月等々の会員が参加しました。
前田氏は先ず、駿河・伊豆・相模・甲斐をめぐる今川氏・北条氏・武田氏・徳川氏など戦国大名の外交関係の推移についてわかりやすく解説し、駿河東部・北伊豆地域は、これらの大名の外交策に翻弄された国境(境目)の地域である、という位置付けを明らかにしました。
それを前提にした上で前田氏は、『静岡県史』編纂時における西山本門寺(富士宮市芝川地区、最近は「信長の首塚」で有名なお寺)の調査により発見された断簡「相・遠会面覚書(北条氏と徳川氏が会面した際の記録)」を題材に、天正14年(1586)3月に駿河・伊豆国境付近で行われた徳川家康・北条氏政両大名の会見の詳細とその歴史的意義についてお話をしてくださいました。
前田氏によれば、徳川家康は豊臣秀吉に服属しようとする直前の時期、北条氏に対して非常に低姿勢でのぞみ、贈答品や接待について、北条氏側に大変な気遣いをしていた、ということです。家康はこの時期、秀吉に従わざるを得ないという状況と、同盟者で娘の嫁ぎ先でもある北条氏への対応の狭間で苦悩していたことがうかがわれる、とのことで、天正10年代の駿・豆国境付近の情勢を考える上で大変参考になったお話でした。
近世に編纂された史料によれば、会面は三島、次いで沼津で行われ、その後「惣河原」で酒宴が催されたとのことですが、「惣河原」は現在長泉町の惣ヶ原地区と考えられ、以前同地区の近くに住んでいた私にとっては非常に興味深い内容でした。
また、これも近世史料からですが、家康は北条氏側の使者に三枚橋(沼津)城の外郭の堀・櫓の破却の状況を見せたとも伝えられており、国境(境目)地域の城郭のあり方についても大いにヒントを与えてくれるものでした。個人的には、以前から駿・豆国境の城郭や土豪屋敷について調べているので、もっと勉強する必要性を痛感した講演会でした。
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