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日本の平和憲法の貴重さを知っている戦争体験者が、殆んどいなくなる困った現実。

2015年02月09日 20時57分52秒 | 日記
 評論家の佐高 信氏が、2007年に亡くなられた作家の城山三郎さんについて、興味あるコラムを書いておられる。

 城山三郎さんは昭和2年の生まれだが、大正から昭和に年号が変わる時期の関係上、実際は昭和元年生まれと計算しても良い。

 城山さんの青年期は戦争の真っ最中で、軍国少年として育ち、特攻隊にも志願し軍隊の実態を思い知っている。そうした貴重な経験をした日本人も生きておれば87歳になる。

 筆者は城山氏より14~5歳後に生まれたため、戦争体験はないが、3~4歳のころに米軍の爆撃機が雨のように降らす爆弾や焼夷弾を避け、防空壕に母親とともに逃げまどった恐怖の経験は、子供心にも恐ろしかったからであろう、今でも記憶に残っている。

 少なくとも戦争体験がある人たちは、今の平和憲法が70年間、日本がどの国とも戦争をすることなく過ごせたことに、どれだけ幸せであったか平和の有難みを知っている。

 しかし、今の政治家も日本国民の大部分も、戦争の実態を知らないで、物心ついた時から、当たり前のように、日本国憲法のもとで育ってきている訳だ。

 日本占領下の米国の主導で作られた今の日本国憲法。米国も本音では自国でも掲げたかったであろう平和憲法とは裏腹に、米国はその後、朝鮮戦争、米ソの対立激化、ベトナム戦争、イラク戦争、911のテロ報復と、休むことのない戦争国家に変身していく。

 米国も日本の軍事力強化には永年秋波を送っており、特に安倍政権になってからは、日本自身から、軍事国家にのめり込もうとする有様だ。

 もしも城山三郎氏が今も生きていたら、悲憤慷慨するであろう。

(ダイヤモンド・オンラインより貼り付け)

「戦争で得たものは憲法だけ」 
作家・城山三郎の歴史観

佐高 信 [評論家]
2015年2月9日

 <昭和2年(1927年)7月24日、作家の芥川龍之介が前途に「ぼんやりとした不安」を感じて自殺しました。35歳でした。
 それから1ヵ月近く後の8月18日に、作家の城山三郎が生まれています。同じく作家の石牟礼道子や吉村昭、あるいは藤沢周平も昭和2年生まれです。
 昭和元年は1週間ほどしかないので、実質的には昭和2年が昭和元年ですが、城山や藤沢が生きていれば今年87歳で、昭和87年ということになります。>

 これは近著『佐高信の昭和史』(角川学芸出版)の「はじめに」の書き出しだが、昨年末に書いたので、明けて今年、2015年になってみれば、昭和88年、米寿ということになる。城山三郎の生涯は、まさに、昭和とともにあった。

●皇国日本史で育てられ
歴史に対する不信感が募る

 その城山三郎こと、杉浦英一(本名)は17歳で海軍に志願する。軍国少年として“志願”と思わされたことを口惜しく生きた城山に歴史観を尋ねると、

「私には戦争中の皇国日本史で育てられて、歴史に対する不信感が長くあったわけです。あの歴史は間違っていたとも言えるし、一方的であったとも言える。しかし、当時は100%正しいものとして教えられましたからね。それが戦後いろいろなものを読んで、歴史というものは史料によってずいぶんひっくり返るものだなと思った。非常に便宜的なものだし、歴史が必ずしも真実なり事実なりを伝えない。しかし、それが歴史になってしまうと非常に強い発言力を持つわけです。特に活字になると、ある権威を持ってしまう」と答えてくれた。

 代表作の一つの『鼠』(文春文庫)の中で「一度でよいから歴史に多寡をくくらすまい」と書いている城山らしい答である。

●戦争はすべてを失わせる
戦争で得たのは憲法だけ

 昭和の、特に前半は「戦争の時代」だった。特攻隊に“志願”して、皇軍と呼ばれた軍隊の実態を厭というほど体験させられた城山は、特攻は志願ではない、国家や社会によって志願と思わされた強制だと強調しながら、私との初めてのインタビューで、

「不確実、不確定の時代でわからないことが多いけれども、戦争になったら、元も子もなくなるということだけはハッキリした事実だと思うんです。だからとにかく勝つ負けるよりも先に、戦争を防ぐということ、戦争にならないようにするということしかないと思う。そういう意味では、戦争を前提にしたものの考え方にはついていけないし、戦争を前提にして人を煽りたてるようなことに対しては抵抗があります」と断言した。

 城山はまた「戦争はすべてを失わせる。戦争で得たものは憲法だけだ」と主張し、土井たか子や落合恵子とともに私がつくった「憲法行脚の会」の呼びかけ人にも加わってくれた。

 同期の友人たちを含む多くの人の血を流して生まれた、非戦の日本国憲法だという思いからだろう。

●松下幸之助も田中角栄も嫌い
本田宗一郎には惹かれる

 城山が亡くなったのは2007年の3月22日である。79歳だった。

 城山の亡くなった日の翌々日の各紙コラムは軒並み、城山追悼で筆を揃えた。『朝日』の「天声人語」、『毎日』の「余録」、『産経』の「産経抄」、そして『東京』の「筆洗」である。他に私が見逃したのもあったかもしれない。『読売』はその前日に私が追悼文を書いたので、見送ったのか。

城山は知っている作家などが亡くなると、冥福を祈るつもりでその作品を読むのが常だった。私もそれに倣って、城山と私の対談『人間を読む旅』(岩波書店)を読み返すことにした。『城山三郎の昭和』(角川書店)の著者の私としては、これが角川文庫に入る直前だったことが悔やまれる。

「私のことを書くなんて」と照れつつも、城山は若き日に書いた同人誌などを貸してくれた。

 城山は松下幸之助や田中角栄が嫌いだった。前記の対談で私が、「太閤秀吉も好きじゃない?」と問いかけると、「太閤以前はいいけど、太閤になってからダメだもの」と明快な答え。

 そして「太閤にならない人」として本田宗一郎を挙げ、その意味をこう語った。

「要するに、自分の中に自分はタダの人だというのがあるんじゃないかな。どんどん自分が肥大していく人と、全然昔と変わらない人とがいる。夜食を食べるときに社員がみんな列をつくっていると、一番後ろにつく。俺は社長だとか、一番前に行くとか、全然そういうことを考えない人だから。いつもタダの人間というのが、僕はすごく大事なことだと思う」

 葬儀なんか絶対にやるな、と本田は口やかましく言っていた。それでもやはり葬式をしたいと会社側が言ったら、夫人はそれをやわらかく、「あの人は家に帰ってきても心はいつも会社に行っていた。死んでやっと家に帰って来たのに、また会社にもっていかれては耐えられません。お断りします」と拒否した。

 それでも会社は、「本田宗一郎に感謝する会」を3日間開く。東京は青山の本社ビルに初期のころからのバイクや車を並べ、誰でも立ち寄れるようにしたのである。他には、本田の写真と「おかげで私は幸せな人生をおくりました」という感謝の言葉しかない。何も知らずに入って来た若者たちも大喜びだったから、さぞや本田も本望だったろう。

●勲章拒否
護憲派の旗を生涯掲げる

 私は城山作品を二つに分けたことがある。『真昼のワンマン・オフィス』や『望郷のとき』のような、いわば「無名の人間」描いたものと、『落日燃ゆ』や『男子の本懐』のような「有名の人間」を描いたものとにである。 

 城山は「誤解された人間」に興味があると言ったが、同じように「誤解された人間」であっても「有名の人間」と「無名の人間」とでは、その受ける衝撃に違いがある。国の政策が変わって「鎖国」となり、そのまま異国メキシコに朽ち果てた100余名のサムライたちを描いた『望郷のとき』と、「戦争犯罪人」とされた広田弘毅を描いた『落日燃ゆ』の間には、大きな落差がある。

「棄てられる者」から「棄てる者」への、描く人物の変化は、著しい重心移動ではないかと尋ねると、「ウーン」と城山は唸って考え込んだ。

 18歳も年下の私の青っぽい問いかけにも、そうした反応を示す人だった。そして、勲章拒否の護憲派の旗を一生降ろさなかった。

(貼り付け終わり)