ビビッド能里子トーク・サロン

心身両面の指導者として感じたこと

「世界心理治療学会」で発表した小池能里子のアドバイス 2

2016年09月21日 | えっせー
 ☆ 意識は主人公、無意識は召使
 また意識と無意識は、氷山にたとえられています。
氷山は水面上で出ているのはわずか0・3%ですが、それが意識で、その水面下
にはもっと膨大な氷山があり、それが潜在意識(無意識)の領域だと言われて
います。そのため、もしも意識と無意識が争ったとしたら、絶対に無意識の方
が強いことがご理解頂けることでしょう。また、意識は「主人公」とも言われ
自分で判断したり、決断など、意思決定ができますが、無意識は「召使」とも
言われるのは、全く判断できないために、良い事も悪いことも、すべてもスト
レートに受け入れてしまうのからです。判断や決断ができない無意識ですが
その計り知れない大きな力の存在は、私達の生き方に大きな影響を与えます。 
 ですから、ご自分で満足できるラッキー人生を送るためには、大きな力の
ある無意識を味方につけることが絶対で、それは言うまでもありません。
※潜在意識の図

☆潜在意識には能力の宝庫
 そう言われる理由は、生まれてから今までの過去の記憶が全部インプット
されていて、さらに経験したことや、学習したことなども、意識の上では
全く思い出せないこともすべて刻みこまれているのです。
 たとえばAを学んですぐに止め、次ぎBを学び、またCを学習したとし
ましょう。しかしどれも長続きをしないで止め、AもBもCも全部無駄に
なったようですが、それらは潜在意識にシッカリ残っています。
 その後しばらくしてからDを学習したときに、過去に学んだものと、結び
つき新しいアイディアや、発想が生まれることもあるのです。
 ですから、私はどんなことを勉強しても、決して無駄にはならないと
信じています。

 私ごとで少々おこがましいのですが、長年思いつくままに限りなく色々
勉強しましたが、それらが結びついて、ダンス教師からスタートした私が、
ヨーガの指導者となり、ヨーガ教室やダンススタジオを経営し、またその
後心理カウンセラーとなりました。現在は物書きの道も拓けたのですが
自分でも驚いたのは、学歴もなく、学者でもない私が、国際心理学会に
度々出席し、その結果「世界心理治療学会」で英語でプレゼンテーション
できたのですから。それらは幸運なことに、いろいろな方々のサポート
がありましたが、その基本は、絶えず学んださまざまな雑学?の上に成り
立っていると言っても、決して過言ではないと感じています。
 過去から現在まで、感覚的な私はあまり考えることなく、即行動し、今
でもまた、新しい勉強を続けています。学ぶことに年齢はありません。
 まだ私には可能性はあると信じているから、すべて潜在意識が味方になり
導いてくれるのだと思っています。
 次回は「潜在意識を味方につける方法」をご紹介しましょう。

「世界心理治療学会」で発表した小池能里子のアドバイス

2016年09月20日 | 気分をスッキリさせる方法
 自分の人生を満足して生きるために
☆ 無意識(潜在意識)について
 意識とは自分ではっきり認識し、考え、決定して行動することです。
その意識の水面下に「偉大なもう一人の自分」がありますが、その存在を知るか
知らないか、またその無意識を味方につけるか、敵にするかによって、人生は
大きく変化します。深層心理学で世界的に有名な、スイスの精神科医で、心理
学者「グスタフ・カール・ユング」は「人の一生は無意識の自己実現物語である」
と言っています。私も長年心理学を勉強していますが、この言葉はまさに
真理だと思います。無意識とは潜在意識とも言いますが、どんなものだか存知で
しょうか?私達には自分で考えて言動(行動したり、話したりすること)する
意識と、何も考えず、また気付かずに言動する部分がありますが、その「気づか
ずに行動したり、話したりする言葉」が無意識(潜在意識)なのです。
 私は心理学を学んでから、その無意識(潜在意識)の存在を知り、その力
の持つ計り知れない信じて、いつも味方につけて生きてきました。
 その潜在意識については、今まで講演や、著書の中でもくり返しお話し
いたしましたが、その潜在意識について久しぶりにお話ししましょう。

☆無意識とは
 もしかしたらお気づきでないかも知れませんが、私達の日常生活はほとんど
が、無意識で行われています。あなたが毎朝目覚めた途端に「これから何を
しよう?」と考えたことは多分ないでしょう。
 人それぞれ生活習慣の違いはありますが、起きるとすぐに、歯を磨いたり
顔を洗ったり、お化粧したり、ご飯を食べたり、また身支度をして仕事に出
かけたりします。また歩くときにも、「左足から出そうか、それとも右足から
出そうか」などと考えたこともないはず。それから車の運転も同じですが
免許の取りたては「赤信号だから止まろう」「人が歩いているからもう少し
車を寄せよう」などいちいち考えながら運転しています。

 ところが、運転に慣れてしまうと、頭では何にも考えずに自然にスムーズに
運転していますね。それらの動作はすべて無意識の中にインプットされたために
全く考えずに一連の行動ができるのです。
 もしもそれらの行動ををいちいち考えていたとしら、大変疲れるとは思い
ませんか。これもよく聞く話ですが、お酒を沢山飲んで、途中からのことは
まったく覚えていないのに、何時の間にか家で寝ていたなど。
 それは「もう一人の自分」である無意識が働いて、あなたを家までしっかり
サポートしてくれたのです。また「無意識にやってしまった」とは、誰でも
よく言いますが、無意識にやったことは、必ず自分にとっては有利である
場合がほとんどですし、それはホンネと言っても良いでしょう。
つまり潜在意識は水面下から、私達を守ってくれるとても有難い存在なのです。
 私達の日常はほとんど、無意識的に行われていることに、きっと気づかれた
ことでしょう。







これが私の自己顕示欲のルーツ?

2016年09月19日 | えっせー
 私は両親の趣味?で、当時麻布にあった両親いわく「音楽学校」に
入会させられた。そこは一人で独唱できる子どもに限ったようで、確か
雨の日に、4歳年上の兄と二人で、その先生のオーデションを受けた。
 4歳上の兄は不合格で、私は合格だったようだ。
それから毎週母に連れられて、私は麻布のお稽古場にレッスンに行ったが
お稽古に行く時には大変だった。その頃こて(頭をセットする熱い鉄の器具)
で髪にカールされるのが、熱くて嫌でたまらなく、それは幼子にとって
ストレスだった。さらに大きなリボンをつけられて、お洋服もオシャレ
なものを着せられ、まるでお人形のように母にしたがった。
 甘いものは声に良いそうで、チョコレートや飴など、その日は好きなものを
買ってくれたので、それが唯一の楽しみだった。
※ドイツ?に紹介された記事 右前が私

 その後その幼児合唱団は、(3歳から学齢まで)「桑原豆歌手隊」と名前を
つけられ、キングレコードの専属になった。
 家では声に悪いと言われる、カレーライス、なすなど、全然食べさせて
貰えなかった。日本ではかなり有名だったようで、その時代の雑誌や新聞に
ときどき紹介されたらしい。3歳で入った私は一番小さかったが、歌はキチン
と歌えたようで、ステージの体験もハッキリ覚えている。
 幼い頃にステージ体験が豊富な私は、それが自分の性格に大きな影響を
受けたようで、どこに行っても大勢に見られたので、自己顕示欲の強い
のはそれがルーツだと思っている。今でもステージで独唱し、その時の
怒涛のような拍手はハッキリ覚えている。


 

伝統の「山崎太鼓」

2016年09月18日 | 気分をスッキリさせる方法
 ☆ 梅ヶ丘のお祭り
 土日は梅ヶ丘のお祭りだが、地元の山崎小学校の生徒が、「山崎太鼓」を
駅前で披露した。夫と一緒に見たが、お揃いのブルーの法被を着て、草履
を履いてなかなか可愛いらしい。山崎小学校は梅ヶ丘にあるが、夫はその
卒業1期生だ。それから娘と息子も卒業し、その子供達3人、つまり親子
3代でお世話になった。今32歳になる孫娘は「山崎太鼓」を練習して、色々
な所披露したらしいが、それは伝統になり地元では有名になっている。
 相当練習したのだろうが、ばちさばきはなかなか素晴らしかったが
規律正しく演奏する姿は、毎年見ても何だか胸がイッパイになった。
 

渋谷でランチして

2016年09月17日 | えっせー
 「急に時間が空いてしまいました。お時間があったらランチできますか?」
と心友のT子さんからメールがあり、いつも待ち合わせる場所で会った。
 彼女は経堂の英会話の教室で会ったが「なんて雰囲気のある美しい方か
しら」と思った。ピアニストで「今目白のフォーシーズンホテルのラウンジ
で弾いている」と誘われ、友人と一緒に寒い日に行き、T子さんが 有名な
「クララ・シューマン」が弾いていたピアノで、演奏していたのを聴いたが
とてもムードがあって、素敵な演奏だった。
それがきっかけで親しくなったが、お誕生日が同じと知って、思わず二人で
ハグしたのが、確か地下鉄の日比谷駅のホームだった。
 
 私達は20歳年が違うが、とても波長が会って親友になり、それからパリへ
個人旅行を二回した。今回も「買いたいピアノをパリに見に行く」と言う
T子さんに、私は無理してでも一緒に行ってしまおうかと算段した。
 でもそれはピアノの査定のご主人が具合が悪く、諦めたそうで、実は私
もガッカリした。二人の間には秘密は全然ないので、私も溜まっていること
をすべて吐き出せ、わずか1時間半だったが本当に楽しかった。
 洗いざらい何でも話せる心友がいるのは、何と幸せなことだろう。
行きはバスだったが、帰りは井の頭線にしたが梅ヶ丘までわずか15分だ。
 地の利の良い私は実に身軽だ。「朝からあまり体調がよくなかったけれ
ど、能里子さんと会って元気になりました。付き合って下さって有難う」と
T子さんからすぐにメールが着た。

お天気に気分を左右されて

2016年09月16日 | えっせー
 このところ何日かぐづついた日が続いている。
そううつ気質(生まれ持っている性格の基本といえる性格)の私はことに
お天気に気分が左右されやすいので、何となく気分が冴えない。
 それにしても、昨夜は面白そうと思って見た映画は、私にとっては、あま
りにどぎつく、ムードがなかった。時間も長かったが、見終わった途端に
「疲れた」と感じた。それぞれ好みがあるが、臆病な私は嫌な場面や、恐ろ
しい場面は必ず目を閉じるくせがある。
 昨夜見た映画はそれが頻繁にあったが、一緒に見た友人も同じように感じ
たようだ。その後下北で飲んで、友人に送られて深夜に帰宅した。
 
 映画は非日常的な空間なので、気分転換になり大好きだが・・・
見終わった後、気分がふんわりほぐれたり、ロマンチックになったり
感動したり、そんな余韻に浸るのも、私にとっては小さな幸せの一つだ。
 すると突然、昔親友と、「有楽町マリオン」で「海の上のピアニスト」
を見たが事を思い出した。私はもう一度見たくて一人で行ったことが
見終わってから、晴海通りから銀座に向かって歩く時に、涙が止まらな
かった。中学生の頃「おセンチ」とニックネームをつけられた私。
 何歳になってもセンチメンタルだが、楽しくない映画はもう絶対
に見たくないと思った。

低体温と格闘して

2016年09月15日 | えっせー
 若い頃から体温が低かった。でも冷え症でもないし、無論寒がり
でもない。でも低体温と言っても体調は悪い訳ではなく、元気
だったが、何故か55歳頃から体重がだんだん増えだした。
 そう食べる訳ではないし、間食ゼロ、夕食後約4時間後に眠るが
その間何も食べない、運動はほとんど毎日する、そんな生活が長年続い
ているから健康なのかも知れない。もしかしたら低体温と加齢現象の
ために代謝率が悪いのだと気づきいた。

「体の中から温める」と推奨された、乾燥生姜を自分で作って二年間
毎日飲んだ。でも、全然体重は変化がないので、止めてしまった。
 また私は二年程前から38度のお湯に15分間浸かって、その間体の
各部分を刺激していた。友人にそれを話したら「どうせなら半身浴
をしたら」と勧められ半年間したが、それもまったく効果がなかった。
 ある日突然体がけだるくなって動けなくなり、治療家でもある先生
に相談した。すると「それはきっと体の冷えが原因だ」と指摘された。
 それから先生のお勧めで、8月24日から寝る時にお腹を温める方法を
教えて頂き、必ず毎日行っている。

 そのお陰で昨夜入浴後の体温は6度6分もあったが、昼間もたまに6度代
になることがあるので、それは大変効き目があるのでとても嬉しい。
 今日ふと閃いて、もう一度「乾燥生姜」に挑戦してみようと思った。
もしかしたら「お腹温め」と、乾燥生姜の「中から温める」相乗効果
があるかも知れない。11月にはある学会で
「アンチエイジングに・見ための若さを保つ方法」の講演をする私。
やはり肥っていてはよくないし、せめて少しはスリムになりたい。
 手足が細いので随分得をしているが、胴体は本当にデブで恥ず
かしい。乾燥生姜を作るのは、少々手間がかかるが
「早く体温が36度代になるようがんばろう」と思った。
何しろ、自分がたたき台なので、本当に遣り甲斐がある、何だか急に
楽しくなった。


最高に頭にきたことがあった日

2016年09月14日 | えっせー
夜7時半頃ベランダに出た、雨が降っている。
不思議なことに、我が家がある梅ヶ丘駅前通りには木一本草一本ない
のに何故か虫の声が聞こえた。「え!これって空耳?」と思ったが
確かに私の耳には、少女時代には夏が終わってしまうと、淋しくて
仕方なかった「秋の虫」の音が聞こえた。
 私にとって最も重要なのは時間だが、その大切な時間を浪費させられた
ことが許せなかった。メールや電話が何度もあったが、すべて応答しな
かったが、人生いろいろなことがあるのだと、諦めることにしよう。
 でも一人で行った隣りのカラオケで、思いがけない収穫があり、私の
能力は半端でないと実感できた。これほど力があるのにそれを存分に発揮
できないのは口惜しい、そうだ今度また実験しようと、少し気持ちが
明るくなった。




 

心の宝石箱を開いて

2016年09月13日 | えっせー
☆ 幸せだった思い出
 自分にとって成功体験や、幸せな思い出は「心の宝石」だと私は
思っている。その中には初めて頂いた印税、講演料などの記録や
読売新聞から取材を受け、その記者からの手紙、凄く売れた
「リラックスで人生が変わる」(同文館出版)の文庫化依頼の
手紙、また「執筆者大事典」の収録依頼など、色々入っている。
 実は先日精神世界をご教示頂いている先生から「第三脳室」
と言う言葉を聞いたが、それは私にとっては初めて聞く言葉だった。
 私が医学用語も、時代と共に変化するようで、ネットで調べて
初めて知った。大脳生理学(現在では脳科学と言うようだが)
を学んだのは、催眠法を習い始めて、その必要性を感じて、並行
して学習したがそれは大昔のことだった。
※「私は自分をこう変えたい」掲載写真

 それからしばらくして、三冊目の著書「私は自分をこう変えたい」
(同文館出版発売)が出たが、その中の3章は
「大脳の不思議な世界をのぞくー大脳生理学者品川嘉也先生に聞く」
だった。その頃右脳開発で超有名で、私の俳句の先生でもあった
日本医科大教授にお願いした対談だった。
 それは私にとって最高の成功体験だった。超有名な品川教授との
対談は、大脳の知識がなければ絶対にできない。
 それは京王プラザホテルの一室で、編集者とライターと4人で行われ
その後食事をご馳走になった。あのときの幸福感は一生忘れないほど
私は高揚していたので、しばらくそこに残って、誰もいない部屋でコーヒー
を飲みながら、その余韻を十分楽しんだ。

 こんな幸せを形で残せないかしらと思って、しばらく考えその頃先生は
フランス製のピンクや、ブールーなどの美しい吸い口のたばこを吸って
いらした。(その時代は男性はほとんど吸っていた)
 ヘビースモーカーらしく、灰皿にはキレイなたばこが沢山残っていた。
「これを記念にしよう」とピンクとグリーンのたばこを持って帰った。
 それをラップで包んで、リボンをつけた「心の宝石箱」にそっと収めた。
それにはこう書いてあった。「平成2年8月、京王プラザホテル瑠璃の間
「私は自分をこう変えたい」3章、品川嘉也先生に聞く、対談時の先生の
たばこのすいがら」色はあせたが、まだピンクとグリーンは分かる、先生
はもう大分以前に亡くなられたが・・・初めて先生から聞いた「第三脳室」
から、私はまた懐かしく幸せな気持ちを再体験できた真夜中だった。

早朝目覚めて

2016年09月12日 | えっせー
 ☆ 5時10分
 夜明けが随分遅くなった。早朝目覚め戸を開けて、レッスンしながら
ベッドから見える狭い空の色を時々見ていた。
 だんだん色が変わり、ブルーになって明るくなったが、まだ完全に
明けていない。やはり秋は深まりつつあるのを感じた。
 ベランダでしばらく朝の冷気を受けながら空を眺めたが、雲が少し出
ているが、外はまだ静かだ。今日もまた人生の1ページが広がる。
 さて今日はどんな日になるのかしら?

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