女装子愛好クラブ

女装小説、女装ビデオ、女装動画、女装記事などを紹介していきます。

JR埼京線の車内で不自然に女装子を囲み…

2022年09月24日 | 私的東京女装史
コロナ禍前、19時以降の埼京線下り通勤快速1号車1番ドア運転席後ろはすごいことになっていました。
前回ご紹介した女性に対する痴漢の他、男性同士のハッテン、女装子とそれを囲む男達。

私は池袋から乗るのですが、美人女装子さんがいた場合、目を血走らせた男性たちが4-5人で彼女を囲みます。
そして彼女のミニスカートをまくり上げて、性器を触ったりする痴漢行為に及ぶのです。
「女装子だから声は上げねえだろう」という安心感?から行為はエスカレートしていったようです。
そのわきでは男性同士が扱きあう。

上野駅前のオー*ラ地下最後列立見席か、最強線か、というくらいのコンバットゾーンでした。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バブルの時代~東京の女装シーンも劇的な変化がありました

2022年05月08日 | 私的東京女装史
今日で大型連休も最終日ですね。
私は遠出もせず、家でちんまりしておりました。
そのなかで面白かったのは「NHKスペシャル: 東京ブラックホールIII 」です。
山田孝之がバブルの時代にタイムスリップするのです。

「東京ブラックホールIII」では、日本経済のバブルが最も膨らみ、一挙に奈落の底に落ちた1989年から1990年にタイムスリップ、俳優・山田孝之演じる21世紀の若者が狂乱の時代を追体験する。
今でこそ、日本の迷走の原点と位置づけられるバブルだが、その時代、日本経済が世界の頂点に立っていたことは間違いない。経済成長率は先進国で最も高く、輸出も順調で経営者たちは日本的経営に自信を深め、もはやアメリカなど恐れるに足りずという空気だった。人々の所得も上がり続け、高級車、高級レストラン、リゾートにも手が届くようになった。未来への期待感が膨らみ、国民全体が多幸感に浸っていた。
しかし、89年12月、38915円という史上最高値をつけた日経平均株価は、年が明けると急落に転じ、10月には2万円を割る。数倍に上昇を続けた東京圏の土地価格も急落していく。東京に出現したブラックホールは、世界中の富を飲み込み、日本に束の間の繁栄をもたらし、瞬く間に泡と消えたのだった。
歴史上、日本が最も確固たる自信を持ち、陶酔感の中にあった時代を追体験していくことで、閉塞感のなかにある今の私たちの希望の手がかりを探していく。同youtubeの解説から引用


この番組を5月1日に観ましたが、いやあ面白かったですね。
当事者だった自分の記憶が次々に甦ってきます。
ディスコで踊るソバージュのお姉さまたちに改めてゾクゾクしました。
彼女たちもいまは還暦でございます。
番組のメッセージは『あきらめることに慣れすぎていないか』です。
うん、いいぞぉ...。

さて、この時代は女装世界でもターニングポイントでした。
三橋順子さんは「トランスジェンダー・カルチャーの昭和史」で以下のように書いていらっしゃいます。

一九七九(昭和五四)年、日本初の本格的な商業女装クラブ「エリザベス会館」が東京神田にオープンする。商業女装クラブとは、簡単に言えば男性客がお金を払って女装させてもらう場所である。規模の小さなものは以前からあったが、「エリザベス会館」はビル全部が女装関係の設備で、女装用品のショップ、専門のメイキャッパーや美容師が常駐するメイク室、女装姿でくつろげる談話室、プロ仕様の機材を揃えた撮影スタジオを完備した大規模なものだった。

(図9)は一九八〇年代の「エリザベス会館」の広告だが、「エリザベス」という文字の下に「趣味とストレス解消の店」と書いてあることに注目してほしい。一九八〇年代は、日本経済が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の掛け声ととともにバブル経済への上り坂を駆けのぼっていった時期である。その時代を担った「二四時間働けますか」(ドリンク剤「リゲイン」のCMソング)というコピーに象徴される猛烈サラリーマンのストレス解消のための女装趣味という路線をはっきり打ち出し、それがマスコミに取り上げられ知名度を上げていった。

実際、私のエリザベス時代の先輩には、ミニワンピースの女装姿で、当初期の肩掛け式の大きな携帯電話を使って部下にてきぱき指示を出している一流企業のエリート・ビジネスマンがいた。
「エリザベス会館」のシステムの特色は、外出の制限と非女装の男性客を排除したことである。それによって安全な女装環境が提供され、気軽に楽しめる趣味・娯楽としての女装という形態が確立された。また、非女装の男性を排除したことで、アマチュア女装者は、それまで表裏一体の関係にあった男性との性愛関係から切り離されたことも大きな変化だった。

一九八〇(昭和五五)年、「エリザベス会館」の母体である「アント商事」から最初の女装専門誌「くい~ん」が創刊される(図10)。
女装専門の雑誌媒体によって全国に散在していた女装趣味の人たちがつながり、女装趣味の普及に大きな役割を果たした。一九八三年に『くい~ん』主催の「全日本女装写真コンテスト」が始まると、全国の女装者が女装技術を磨き、グランプリや入賞を目指して女装写真の出来栄えを競うようになる。それはまさに「競技」であり、こうした女装者のミスコンを私は「競技女装」と名づけた。
出所 「トランスジェンダー・カルチャーの昭和史」 三橋順子著
   『昭和文化のダイナミクス』ミネルヴァ書房 2016年所収 
    図9、図10は引用者が同書からの転載を行っていません。


猛烈サラリーマンのストレス解消のための女装趣味というコンセプト、そしてバブル景気で男性諸氏の懐が温かくなったことがエリザベス会館そして『くぃーん』が発展していったのですね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

箱根駅伝を走る大学の学生さんと

2022年01月10日 | 私的東京女装史
正月2.3日は箱根駅伝を見て、過ごしました。
往路は抜きつ抜かれつのデッドヒートで見ていて面白かったですね。

上位を走る大学の名前を見て、昔のデートを思い出しました。

その大学に通う学生さんからメールをいただいたのです。
パンティストッキングフェチのようで、下着女装して抱かれたいということです。
社会人の女装子さんであればビジネスホテルを予約して先に入室していただくところですが、学生さんに先に部屋代を出してもらうわけにはいきません。
新宿のWホテル前で待ち合わせをすることにしました。
「まあ、こないかもしれないなぁ」とダメ元で目印の新聞をもって立っておりました。
定刻から少し遅れて、彼がやってきました。
「こんにちわ」
「.............」
緊張で声が出ないようです。
細身の子かなと思っていましたが、しっかりとした身体つき。
フロントでルームキーを受け取り、高層階のダブルルームへ。

北陸地方の高校を出て、その大学の理工学部の3年生。
合唱団にいるそうです。
もちろん年齢は20代。
(ここだけはしっかりと確認しました)

セクシーなランジェリーセットを渡して、「シャワーを浴びておいで。そして、これを着て出てきなさい」と指示する私。
コクリとうなづく彼。

女性の下着をまとった彼は全身が性感帯になりました。
彼の素敵な声がルームに広がります。
快感が理性を破壊するまで攻めてあげると、彼は自然に含んでくれました。

「父親より年上の人とホテルでこんなことしているなんて、すごく不思議な気持ちです...」
鏡に映った唇をすぼめる自分の姿を見ながら、ポツリとつぶやいた言葉がいまでも記憶に残っています。

あの夜から10年以上が経っています。
彼はまじめなエンジニアになっているでしょうか。
良き夫、良き父親となっているでしょうか。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女装子さんとのデートをプランするときはトイレにも配慮する

2021年09月25日 | 私的東京女装史
承前です。
女装子さんとのデートをプランするとき、やはりトイレの問題を考えた方がいいようです。
カジュアルなレストラン、雰囲気の良い居酒屋、バーなどがデートの場所でしょう。
美味しい料理とお酒を飲んだ後にメーキングラブ....。

ただ、このときも多目的トイレのあるお店を選びたいところです。
しかし、単体のお店ではトイレは男性用・女性用しかありません。
ですので、男性がデートプランを考える時、大きなレストラン街のあるテナントビルを優先してみてもいいですね。
まあ、男性用のトイレにはいって「あら、ごめんなさい、間違えちゃった」と出てくるという肝っ玉姐さん系の対応もありますが...。

★こんな本もご参考に


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1990年の韓国・ソウル

2021年08月18日 | 私的東京女装史
韓国のバスの思い出を書いていたら、思い出しました、その時の韓国旅行を。
1990年でした。
「働きすぎはよくない」ということで、政府から社員にまとまった休みを取らせなさい、という指導がはいったのでしょうか、社長から「今年は1週間まとめて休みを取ること、これは命令だ」とお達しがでました。
急に休めと言われてもねえ、困った。どうしよう。
そうだ、韓国に行こう。
まあ、気安い独身者ですし、まあ海外旅行のコツはつかんでいる。

ということで、まずはビザを取りに港区赤羽橋の韓国大使館へ。
(当時はビザが必要だったんですね)
飛行機はJALが取れました。

成田からは順調なフライトで金浦空港に到着。
小さな空港で、とことことホテルインフォメーションに行き、明洞近くのビジネスホテルを予約しました。
「さてと、市内に行く空港バスは」とチケット売り場に行くと、そこにいたおじさんに日本語で「おにいさん、ひとりであるか? いい娘世話するよ、きれいな娘だよ、どう?」と声をかけられました。
『ええ、ここは空港だぜ、こんなところで客引きされるのか...』と驚く私。
しかしまあ、丁寧にお断りいたしました。
韓国歌謡がガンガンにかかっているバスに乗り、意味の解らないハングル文字の看板を眺めながら、市内へたどり着き、ホテルにチェックイン。

年季の入ったビジネスホテルです。
鍵をもらって荷物をほどくと間もなく、ドアがノックされます。
「誰?」
ドアを開けると若いボーイがずけずけと部屋に入って、にやにやしながら、日本語でこういいます。
「おにいさん、ひとりあるか? いい娘世話するよ、きれいな娘だよ、どう?」
「けっこうあるよ、大丈夫、大丈夫...」と押し返しました。

一息ついて、カルビ焼きを食べようと明洞の街を歩いていると、向こうからニコニコしたおじさんが近寄ってきます。
『あれ、韓国に知り合いはいなんだがな?』と不審に思っていると、きれいな日本語でこう言います。
「おにいさん、ひとりあるか? いい娘世話するよ、きれいな娘だよ、どう?」

1990年、一人当たりのGDPは韓国が6,610$に対して、日本が25,359$。
約4倍の開きがありました。
そのときの主要産業はインバウンド観光+αだったのでしょうか。

しかし2018年、一人当たりのGDPは韓国が42,135$に対して、日本が41,501$と逆転されてしまいました。
コロナ禍が終わったら、もういちどソウルに行ってみたいと思っています。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小山田圭吾氏の事案から思い出したこと

2021年07月23日 | 私的東京女装史
カテゴリーを私的東京女装史としています。
あまり愉快ではないことを思い出してしまったのですが、これも私的歴史かなと考えて、ここに入れます。

いまから20年前くらいのことでしょうか。
P倶楽部の掲示板に女装子さんがある投稿をしました。
概略は以下の通りです。
「女装してJRのP駅を歩いてた。近くに特別支援学校がある。そこに通う知的障がいを持つ男の子を空き地の陰に連れ込んで気持ちよくしてあげた。彼も喜んでいた」

なにか自慢げのような書きぶりでしたが、これを読んだ私は強い不快感と違和感を持ちました。
女装してのさまざまな快楽事は成人した女装子さんと女装愛好男子の双方が了解して行う遊びであるべきというのが私の考え。これは20年前もいまも変わりません。
未成年で知的障がいを持つ子に対して、いくら「彼も喜んでいた」とはいえ女装者が自らの快楽を第一に考えるような行為は許されるべきものではありません。
そして沈黙はこの行為を認めることになると考え、ハンドルネームを明記して、同じ掲示板に反対意見を投稿しました。すると、「私も違和感を持ちました」とある女装子さんも同意の書き込みをしてくれました。これはうれしかったですね。

しかし反論も多かったですね。
3倍くらいあったかな。
ネット上で論争することは大嫌いなので、最初の書き込みだけで以降は沈黙しましたが、P倶楽部の掲示板には賛否を含めていろいろな意見が長期間にわたり飛び交いました。
そしてついには、主宰のYさんが「このことについてはここまでにしよう」とピリオドを打って終わりになりました。

反論を読んでいて気付いたことは、「その男の子も気持ちよくなったからいいんじゃないか」ということを免罪符にして、自分の立場を正当化して障がい者を見ている人がほとんどだということ。

自分の子供が障がい者だとして、女装した男性から性的いたずらを受けたことを知ったら親としてどのようなショックを受けるか。その女装した男性に対して親としてどのような感情を持つか。こうしたことに思いを持つことは大切だと私は思います。

女装は壮大な「ごっこ遊び」。
良識を持つ紳士と淑女(まあ男性ですが)がお互いの合意で楽しんでこそ、非日常の快楽を得られるものです。




コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

背広という囚人服を脱ぎ捨てて、一時でもドレッシィな格好でデパートめぐりができるのは、僥倖といわざるを得ません

2021年06月18日 | 私的東京女装史
パソコンのデータを整理していましたら、パソコン通信EONさんのログが出てきました。
1996年6月と記録されています。

EONは登録申請をすると、主宰の神名龍子さんからレスがあり、そこで登録した女装子さんが女装歴や思いを書かれます。
ログを読んでいたら、新入会されたY子さんの文章がいいんですね。
誠に恐縮ですが、引用させていただきます。

Y子さんのは大柄な方で15-17号の洋服を着られています。
独身時代は自室で室内女装でしたが、しかし結婚して一時封印。
東京に転勤になり、エリザベスにも通い出し、新宿の女装部屋も使い出しました。

同居人がおります関係上、着替える場所があってもそうおいそれと着替えるわけには行きませんし、すね毛を剃るわけにも行きませんので夏といっても冬用のタイツをはかざるを得ません。
特に今年は急に暑くなってきましたので、一回外出する度にアウターもインナーもクリーニングに直行です。
それでも、背広という囚人服を脱ぎ捨てて、一時でもドレッシィな格好でデパートめぐりができるのは、僥倖といわざるを得ません。
身体上のハンディを化粧や洋服等で補いながら、できる限り続けられればと思っております。


>背広という囚人服を脱ぎ捨てて、一時でもドレッシィな格好でデパートめぐりができる
この言葉に実感がこもっていますね。
1996年は真夏でもスーツにネクタイ。男は汗だらけになって通勤します。まさに囚人服。
しかし、女装すればブラとショーツに軽やかなプリントワンピ―スを来て、涼し気に街を歩けます。新宿伊勢丹にも入れます。
Y子はこれが本当に本当にうれしかったのでしょうね。

このころから25年たちました。
Y子さんの女装ライフはどのようなものだったでしょうか。
                                 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浴衣を脱ぐと、彼女の身体には

2021年06月15日 | 私的東京女装史
カテゴリーは私的東京女装史ですが、今回は名古屋です。
バブル真盛りの1989年。
ある大都市に同性愛が集まるサウナ風呂がありました。
ここにはよく出張できますので、どんなところだんべぇと夜にでかけてみました。

基本は男性同士が愛する場所です。
ただ、女装子さんもOKです。

個室の集まるフロアを歩いていると、年増の女装子さんが目で合図します。
こちらも目で合図して、彼女の個室にすうーと入ります。

こうなると行うことはただ一つ。
浴衣の上からその女装子さんのおからだを愛撫しはじめました。
彼女も興奮していたのでしょう。
浴衣をパッと脱ぎました。
すると、彼女の乳首を頂点にして身体の前面に立派な入れ墨が入っているのです。

それは妖しげな花びらを持つ牡丹だったでしょうか。
いまであれば、社会経験を積んでおりますで、さほど驚きはしない。
しかし、当時は女装子愛好の初心者。
心の中で「あっ」と叫び、一目散に部屋から飛び出してしまいました。

去り際に女装子さんの顔をみると、寂しそうな残念そうなをしています。
その時の女装子さんの顔を今でもしっかりと覚えています。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

男には肌を触らせない女装子さんも

2021年06月14日 | 私的東京女装史
一昨日の承前です。

男に肌を触られて、オンナの性感帯が芽を出す女装子さんがいます。
反対に、オンナの洋服を着て、キチンとメイクアップをしてオンナになった自分が好きという女装子さんもいます。

私は後者の方とお付き合いしましたが、例えば乳首ですが、指で愛撫するのはOKでしたが、舌でぺろぺろはNGでした。
お洋服の上からでもすごーーく感じる女装子さんでした。
啼き声もチョーsexy

でも、肌を触らせない。
これも彼女なりの想いがあるわけですから、それは尊重いたしました。

女装子さんとの逢は偉大な「ごっこ遊び」
主役の女装子さんが思い通りに演出すればよいのです。


追伸 
写真は昔々の女装誌『くいーん』の表紙です。
日曜日に押し入れを整理していたら、いっぱい懐かしいバックナンバーが出てきました。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和の日、雨模様です

2021年04月29日 | 私的東京女装史
おはようございます。

こちらは雨模様です。
まあ、コロナ感染拡大中なので「皆が家でおとなしくしていることを望む」という昭和天皇のお声が聞こえてくるようです。

昭和54年、日暮里駅近くの問屋街にエリザベスが開店しました。
それまで女装はアンダーグランドの趣味趣向でありましたが、これにより徐々に表に出てきたように思います。
昭和54年といえば1979年。いまから42年前。

昭和は遠くになりにけり、ですか。

『戦後日本女装・同性愛研究 (中央大学社会科学研究所研究叢書)』

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする