小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

西洋的言語観からの脱却を

2018年06月04日 12時36分47秒 | 思想


 以下は、7月に刊行予定の拙著『日本語は哲学する言語である』(徳間書店)の「あとがき」として書いた文章に若干の訂正を加えたものです。

つい先ごろ、庭に名前のわからないきれいな花が二種類咲いているので、どうしてもその名を知りたくなって、「Green Snap」というアプリに助けを求めました。
花の写真を取って送ると、コンピュータか人間が、「何々かも」という形で答えを送り返してくれるのです。
コンピュータの方は見当はずれでしたが、どなたかが送ってくれた答えは、二つとも「当たり!」でした。
冒頭写真、左側はハクチョウゲ、右側はカンパニュラ。
いやはや便利な世の中になったものです。

人は見慣れないものや状態に出くわした時、それに名前がついていないと、たいへん不安になります。
体に異変を感じた時、医者から「あなたは何々病です」と宣告されると、たとえそれが重篤な病気であったとしても、ある種の安心を覚えたりしますね。

何ものかに名前があるということは、その何ものかがこれまで人々の間で話題となり、言葉として共有されてきたことを意味します。
その名前が日本語であれば、日本人が作る共同体の歴史のなかで問題とされてきたことになります。
おそらく、名前がわからないと不安になるという心理は、けっこう重要な存在論的意義を持っていて、それは、自分自身が共同体のメンバーとして承認されていないという感覚に連続するものなのでしょう。
モノや人や観念の名前は、共同体の内部で普遍的に認められたときにのみ成立するからです。

コンピュータが見当はずれの答えを出し、生身の人が正しい答えを送ってくれたという結果に、筆者はなぜか喜びを感じました。
人と人とがこのようにしてつながっていることが実感できたからでしょう。

いわゆる「真理」に関しても同じことが言えます。
以前書いたことですが、アルキメデスが風呂に入っていて浮力の原理を発見した時、「ユリイカ!」と叫んで素っ裸で風呂から飛び出したというエピソードが意味しているのは、この原理の発見によって、彼を包む共同性との間で「言葉が通じた!」という確信を得た喜びなのです。
あらゆる真理や真実は、このように言葉として表現され、それが通ずる共同性とのかかわりにおいてのみ、その存在を保証されます。

いま日本の政局は、たいして意味も価値もない「真実」追究にいつまでも血道をあげて、国民の生活意識との乖離を募らせています。
この無駄な試みの根底には、過去を探っていけば時々の言葉とは関係のない一つの「真実」に必ずたどり着くはずだという錯覚があります。
結果、何がいま日本共同体にとって「語る」に値する重要な案件であるかという適切さの感覚を喪失しているのです。
本当は、膨大な「語り」の錯綜を前にして、卓越した力ある者(この言い方にはいろいろな意味合いが含まれますが)が、この語りこそ自分の属する共同性にとって適切であるとして選び出すところにしか「真実」は現れ出ません。

しかし考えてみれば、この錯覚は、二千数百年もの間、人類を支配し続けてきました。
プラトンが編み出した「感覚を超えたところにイデア=真実在なるものが存在する」という着想も、言葉というものがもともと具えている「事物の抽象化」と「観念の実体化」という力学に従ったまでのことです。

西欧哲学はそのことに長い間気づかず、このプラトニズムという言葉の操作法に呪縛されてきたのでした。
その呪縛とは、現象の向こう側にそれをそうあらしめている「真理=本体」が存在し、私たちの知覚できるものはその影に過ぎないという「信仰」です。
現実には、さまざまな知覚現象や観念現象に、私たち人間が時々の関心と欲望に従って「言葉」を与え、言葉と言葉との関係を整序し、それがある共同体のなかで普遍的な承認を得た時に、「真理」が創り出されるにすぎないのです。

とまれ、西洋哲学が、すべては言葉の使い方の問題であるという自己認識に到達したのは、ようやく19世紀以降になってからのことです。
それから初めて、言葉そのものを哲学するべきだという分析哲学的発想が生まれたのです(厳密には言語に対する反省自体は論理学や修辞学の形で、はるか以前からありましたが)。

筆者も、この大まかな流れに沿って、日本語について考えてみようと思いました。
しかしその場合、論理的な陳述にその対象を集中させる西洋哲学の方法を採用するわけにはいきませんでした。
日本語についての自己認識は、日本語自身によってなされなくてはならないからです。
そこで、日本語を、その独自の構造に即して理解するために、西洋由来の文法的概念や方法論から極力自由な立場で論ずることに力を注ぎました。
けれども、それは日本語を特殊な言語として他と比較することを目的としたのではありません。
その世界把握の仕方を提示することで、じつはどの国の人も、その国の言語の制約を取り払ってみれば、ある場合には同じようなものの見方、とらえ方をしているに違いないという事実に注意を促すことを目的としたものです。

また、このたび書いたことのうち、日本語の特徴やそこから浮かび上がる日本人のメンタリティーについての記述のいくつかの部分が、すでに先人たちによって論じられてきたことの繰り返しになっているのも否めない事実です。
しかし、それを筆者なりの方法によって再確認しただけでも、本人にとっては意味があったと考えています。
願わくは読者の皆さんが、このような哲学的な方法で日本語全体に目配りしてみたことの意義を読み取ってくださらんことを。

とはいえ、今回の試みは、日本語による日本語の哲学としては、まだまだとば口に立ったばかりです。今後筆者自身も努力を重ねる所存ですが、多くの方が研鑽を積まれて、日本語による日本語理解を深めると同時に、さらに進んで西欧中心の言語理解が持つ偏りから脱却されることを祈って已みません。



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