小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

自由と個人化のつけ

2019年09月22日 20時16分59秒 | 思想



ある人に教えられて、御田寺圭氏の『矛盾社会序説』を読みました。
その人に、20年前に書いた拙著『弱者とはだれか』との共通点を指摘されました。
筆者は御田寺氏の本を、2018年11月に出版されてからまもなく買ったのですが、一年近く積読になっていました。
それで、急いで読んでみたのです。
なるほど拙著の問題意識と一部共通点を持ちつつも、それをさらに現代のシーンにふさわしく洗練させ、思想的に鮮明化させているという印象です。
気づかせてくれた「ある人」に感謝です。

御田寺氏はまだ30そこそこと想像されますが、ネット上では前から有名だったようです。
たいへん鋭い分析力と繊細な感性を持ち合わせた人です。
氏は社会学的知見を駆使しながら、表通りの「正しさ」や公認された「弱者」マークによって、かえってそのために見えなくされているいろいろな人たちにスポットを当て、その不可視化、透明化が、私たちの社会で疑い得ない価値とされている「自由」から生まれてきていると指摘します。
そこには「かわいそうランキング」が成立していて、その上位者だけが脚光を浴びる仕組みになっているというわけです。
不可視化、透明化された対象は、孤独死する独居老人(特に男性)、ワーキングプア、結婚できない男たち、非モテ、地方に拘束される若者、ひきこもり、失業者としてカウントされない「ミッシングワーカー」などです。

「助ける対象を自由に選べる社会」とは「助けない対象を自由に排除できる社会」と同時発生的である。
否が応でも周囲に気を配ったり、親切にすることを求められていたような時代は終わり、個人がそれぞれに関心のある、または肩入れしたいものごとに対してのみ力を注いでよい時代を迎えた。それはつまり、自分がかかわりたくないもの、ごめんこうむりたいものに対する「拒否権」が拡大した時代となったともいえる。》(太字は、原文では傍点)
《(相模原障害者施設殺傷事件の――引用者注)被告が殺害しようとしていた対象(被告がいうところの「無価値」な人間)には、彼の言葉を共感的に見ていた人びと自身も大なり小なり当てはまってしまっているのではないだろうか。

「~への自由」と「~からの自由」とを区別し、前者を肯定しなかったのはバーリンです。
先進社会が普遍的価値として押し出す「自由」という抽象語には、たしかにこのアンビバレンツが含まれ、前者が強調されると、御田寺氏の言うように、「助けない対象を自由に排除できる自由」を必然的に抱えることになります。
「自由な社会」が抱える矛盾は、共同体が成り立たず「個人化」が進んできた傾向と不可分です。

ちなみに、ここで「個人主義化」と呼ばず、あえて「個人化」と呼ぶのは、次のような理由からです。
個人主義という用語は、それぞれの人の生き方のモットーを指すために使われ、それは保守派の一部からしばしば「エゴイズム」と混同されて批判の的とされます。
しかし生き方のモットーとしての個人主義は、他人の生き方をも尊重し、互いの生活にむやみに干渉しないという意味合いを含むので、それ自体はけっして悪いニュアンスではありません。
近代、特に都市社会では、これはなくてはならないマナーの一部となっています。
メールが栄えて、電話による声の迷惑を控えるようになったのなどは、いいことですね。
これに対して「個人化」とは、よくも悪しくも家族や社会の紐帯が崩れ、生活の協同が成り立たなくなった全体的な傾向を指します。
ですから、これは「主義」の問題ではなく、そこに抽象的な「自由」理念がイデオロギーとして深く浸透してしまった事態と呼応関係にある、いわば全社会的な構造の問題なのです。
そして厄介なのは、この構造的な問題が、誰から強制されたわけでもなく、私たちみんなで選んできた結果なのだという点です。

これを少し政治的な文脈に置き直してみましょう。
かつては、国民のほとんどに共通する経済社会的不公正があると、労働組合がその課題を集約し、それを支持基盤とした政党が、野党として相当の勢力を示して中央政府に対峙していました。
それは広範な国民大衆に共通する「明日の暮らしをどうするか」を中心課題としていたからです。
実際、中央政府もこれを無視するわけにはいきませんでした。

しかし評論家の中野剛志氏が指摘するように、70年代後半から80年代にかけて、「労働者の暮らしを豊かにすること」を中心課題とする労働組合のこの結束は衰退し解体していきました。
これは、直接には、日本が豊かになり、一億総中流などと呼ばれた時代を反映しています。
山崎正和氏の『柔らかい個人主義の誕生』がベストセラーになったのが84年です。
この情勢をそのまま受けて、野党は、「国民生活の豊かさを保証する」という課題を喪失し(放棄し)、代わって、その政策課題を「差別」「人権侵害」「排外主義」など、特定集団が被っているとされる「被害」の撤廃に集中させるようになりました。
ポリティカル・コレクトネスなる概念が世界中を覆い、わが国でもそれが中央政権に立ち向かうための根拠となったのです。

中央政権もこの口当たりのよい「正義」概念に面と向かって逆らうことはできなくなりました。
この概念の仲間に入れてもらうためには、LGBT、移民、アイヌ、女性など、特殊なマークを持つことが必要とされます。
生活者一般の苦労、困窮という見えにくい指標は、特定の個人のアイデンティティという見えやすい指標に取って代わられたのです。
「すべての人に自由と平等を」「一億総活躍社会」「すべての女性が輝く社会」――そんなことが無理なのは大人なら誰でもわかるはずなのですが、そういうあたりさわりのない標語を中央政権も、臆面もなくかざすようになりました。
反権力的な勢力の政治課題がこのように転換したことは、結果的に政府にとって都合のよいことだったかもしれません。
というのは、特定の個人のアイデンティティを政治課題の中心に据えることは、その影で、どんな間違った経済政策を採ろうが、野党がそれを見逃してくれることになるからです。

さて中央政府の経済政策の致命的な失敗によりデフレが20年以上も続き、いまや実質賃金は下がり続け、格差は開き、中間層は脱落し、年収200万円以下のワーキングプアは1100万人超、貯蓄なしの世帯は半数近くに達し、生活保護世帯は安倍政権発足以来ずっと160万世帯で高止まりしています。
10月からは消費税が10%に増税され、国民にとっては「踏んだり蹴ったり」の状態が実現されようとしています。
かつての労働組合が担っていた課題は、いま確実に復活しているのです。
にもかかわらず、消費増税にはろくな反対運動も起きていませんし、政府の経済政策のひどさを根底から批判する政治勢力はほとんど力を蓄えていません。
ごく少数の人たちが、さすがにいまの日本の危機状態を訴えていますが、いまいち「笛吹けど踊らず」の感があります。
増税されても文句を言わずに我慢する「自由」が浸透しているからです。
個人化の深まりが、当然なされるべき結束の動きを阻んでいるのです。

豊かさの実現が、人々をして「自由」を普遍的価値と思いこませ、個人化の傾向を促進させたのですが、その豊かさが消え去っても、いったん出来上がった意識はなかなか元に戻りません。
足元で苦しい生活に耐えながら、それでも人々の意識は、これらの欺瞞的な価値と傾向から抜け出すことができないのです。
危機待望論ではないですが、おそらくもっと事態がひどくならなければ、この意識は変わらないでしょう。

御田寺氏の著書のまなざしは、主として「かわいそうランキング」の下に位置するがゆえに、不可視化され透明化されてしまった人々に注がれています。
それはそれで「自由」という価値が持つ矛盾と欺瞞性を見事に照らし出すものでした。
しかしいまや、一見、別に「かわいそうランキング」にランクされていないような「ふつうの人々」のふつうの忍耐の日常の中に、不可視化と透明化の核心が存在するような時代になったのではないでしょうか。


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