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第158回直木賞受賞作 『銀河鉄道の父』門井慶喜 著、講談社 2017年第一刷

2018-04-07 13:29:43 | 書評
 「雨ニモマケズ…」サウイウモノニワタシハナリタイと宮沢賢治がなりたかったその詩に描いた人物像は、父、宮沢政次郎だったのかもしれない。

 イリジウム採掘だの、製飴工場だの、人造宝石だの言い出し資金の無心をする息子に、その現実離れした計画には、世間をあなどるなとして取り合わないが、愛情をかけ常に賢治を見守って来たのが政次郎であった。賢治が小切手を送り返すようになる頃までは、資金援助を惜しまなかった。

 政次郎は、愛情をがまんできず、不介入には耐えられない。小学校に上がる前の赤痢、中学のときの疑似チフス、賢治は入院するほどの病気に罹患したが、その時、看病を買って出たのは政次郎であった。そのために政次郎自身が、赤痢や擬似チフス症状をもらってしまうまでに親身になって寄り添った。

 小学校の際、賢治は同級生らと川の青草が燃えるかどうか確かめるために火をつけるとそれがあっという間に燃え上がり、たまたま川中の島であったため町には燃え広がらずけが人も出なかったが、二、三軒の小屋を燃やしてしまった。賢治が含まれていたことは、政次郎が聞きつけていた。夕飯の際、火をつけたことを賢治に質したが、賢治はやっていないと言い、それ以上、問いたださなかった。そして、燃やした小家の再築代金は、自身が建て替えた。子のウソを知りながら、ウソをついたことを正さないところの甘さは、親に資金を当てにするなど後々の賢治の甘さに繋がっていったのではないだろうか。

 小学生のころ、賢治は、妹のトシと石集めに熱中した。政次郎は、その集め方に対し、付け焼き刀の知識で講義をし、京都まで言って石の標本箱を買ってきたりした。その興味が、将来の地質や土壌の専門性をのばすことに導いた。賢治の作品の中で、石の輝きのような表現が文章中に入る下地を作っているのであろう。

 江戸末期、明治、大正と生き馬の目をぬく世の中で、東北地方の地方の商家がつぶれずに生き残るのは並大抵のことではなかった。政次郎は、一度つぶれかかった質屋を再興した由緒ある家柄の長男として育ち、「本を読むと、なまけ者になる。」として、小学校を卒業し進学したかったが許されず店に入った。明治29年(1896年)生まれ、中学までは進学が許された賢治は、その先も進学をしたかったが、「質屋に学問は必要ない」と一時引き止められた。しかし、その後、農民との質のやりとりをやらせてみるに、お金を借りる事情を聞いて貸す額を上げてしまう賢治が質屋に向かないことを悟ったのであろう。18歳の時に進学を許され、農学校の道を進むのである。「またしても農民のためか」と42歳政次郎を思わせた。

 その後も、親との衝突は、田中智学が創設した日蓮宗系の国柱会に走らせることとなる。賢治は、普及のビラも配り、その真理を理解しようとこころみ、本部へもたずねていた。代々浄土真宗を門下であったため政次郎と賢治は、お互い譲りあうことなく宗教論争をし、その衝突は、夜中まで及ぶこともあった。

 父子は共に、信念を曲げなかった。政次郎は、花巻の町会議員をしながら、質屋を守り続け、財力と名声をもっぱら家と街のためだけに使った。努力で地位を築いたものにとって、ひとのねたみもそのまま新たな努力の糧にした。賢治も無料相談で、農家の土壌の改良の方法をその専門家として伝授した。死の直前、知る者なら訪問さえやめている中、訪れた農民の相談者に一時間ばかり時間をかけて伝授し、その農民は納得の上帰って行く。命を削っても、自らの使命を全うすることに手をゆるめようとはしなかったのである。

 賢治の周りには、①エクトール・マロ『家なき子』を読んで下さる小学校の担任の八木先生がいたこと、②中学校の先輩の石川啄木がおり第一歌集『一握の砂』を読んで衝撃をうけたこと、③盛岡高等農林時代に同級生と同人雑誌『アザリア』を創刊したこと、そして④作り話を聞いてくれる2歳年下の妹トシがいたことなど作家を志すきっかけのような環境はあったにしても、賢治の作品は、父無くして作られることは決して生まれることがなかったのではないだろうか。賢治以上に、貢献しているのは、まさに宮沢政次郎である。

 葛藤のように外見にうつるが、賢治と政次郎の間には、一つの学ぶべき父子関係がある。父子関係で大切なこととは、①愛情をかけること=看病や資金援助を政次郎は子ども達に行った、②共通の話題で心を通わすこと=宗教では宗派こそ違えど議論を父子はした、③父自身の曲げない信念をもつこと=弱い人間相手の商売と言われようと商家を守り次世代に継承した、これらがあれば、それを見て子は育ち、子自らが未来を切り開いてくれることを賢治と政次郎は示してくれている。自らの子育てでできているか自省すべきところである。

 親が子の臨終に寄り添わねばならない辛さは計り知れぬ。妻イチに制されながらも政次郎は、死の間際の賢治の遺言を筆で記す。賢治は、妙法蓮華経全章を1千部作り皆に配布するように述べ、政次郎は実行する。昭和8年(1933年)、37歳、賢治の最後の反抗は、遺言の筆を置きに父らが部屋を出たその合間、母一人の前で旅立った。死と言うむさくるしいものを父に見せない。死の瞬間は選べないとしても、架空の地名イーハトヴに「いわて」をかける賢治の遊び・いたずらが、この人生の最後にも父子の間でなされたかのようであった。
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