とは言っても収集の主体は、沖縄,硫黄島,アッツ島,サイパン,グァム等の激戦地域や海戦で沈没の軍艦ぐらいで、父の様に南方輸送中の撃沈で命からがら上陸して再編成の混成部隊では詳しい地域も特定困難でとどのつまりは放置?。70年後の今、戦死者の妻の生存者(殆んどが90歳以上),遺児(71歳以上)の生存者も半減、たとえ収集されたとしても身元確認はDNA鑑定(妻の場合不可)、遺児さえ少なくなった今特定できるのでしょうか。
因みに父の場合、骨箱には何処の物ともわからない石ころが一個入ってただけと母から聞いています。
次男坊の37(±1)年前の写真です。母の遺品にありました。多分2,3歳頃(大阪に行けば正確な事が判りますが)と思われます。大阪の我が家の庭で撮影した物です。繊細な長男に比べておっとりタイプです。
五銭札2枚十銭札(2種)4枚合わせて50銭ですね。一円の半分です。ついでに大正天皇皇后と思われる写真も出てきました。虫食いのお札です。果たしていくらで売れるでしょうか。今の家の前2階裏に古い書籍が30冊ぐらいあった記憶があります。建て替えの際(と言っても50年前の事)全て捨てた様です。もったいない。
祖父が逝ったのは昭和38年(78歳)ですから明治19(8?)年生まれ、下の写真裏書から24歳(多分数え年)の写真です。
11月30日の投稿写真と裏書(写っている事は間違いないと思います)から推察するに、左から2人目と考えられます。若かりし祖父の写真は初めて見ます。多分他家から嫁いできた祖母の写真は見つからないでしょう。その他色々な書類が見つかりましたが解読できません。分家時の財産分与や不動産を取得した書類とは思われますが。
今日も家の家具等整理を続けています。衣類等はできましたが、埋め立てゴミ (ガラス,瀬戸物,植木鉢,梅酒&梅干し瓶 [何時作ったかも知れない中味があります:こちらの処分が先です] 等、昔は冠婚葬祭を自宅でしていた為に茶碗皿椀等全て自宅で準備していた) 宴会が出来るほどの食器があります。月一回の埋め立てゴミ出し(瀬戸物やガラス等重量が重い)ではとても間に合いません。気長にやるしかないですね。しかし今の体調では堪えます。
昨夜は、思わぬことから母と戦時中の事について語らいました。父の勤務(呉工廠)で呉で生活していた時の事、路面電車が坂道を登って来た風景(唯一の呉の記憶:2歳弱).小泊(父の出征で帰省)では、避難(空襲)の記憶で、羽仁の山(母と、近所の母娘[私より2歳上で大阪で女子短大の講師?をしてたとの話も]),大崩の竹藪の中(その時西の波止内で樹帆船が燃えていました),我が家の東の河原(今は暗渠)で渡していた木の山の下(山の上から戦闘機が南下してきました),西隣の家の屋根裏(当時は燃料のせんば等たくさん置いていた様です)が機銃掃射で火災、我が家の井戸水でバケツリレーをして消火(母の背中で)、母もうなずいていました。今でいえば事件毎に???クリニックが必要と大騒ぎしますが、当時の事を考えれば甘え過ぎ??。
心配してた母のショートステーも無事終わりました。初めての事で相部屋での話相手が見つからず嫌がっていたそうですが、7月も月末に予定しています。できれば2回/月ペースで行ってもらう計画です。
今朝も体調よろしきを得て釣りに出かけました。潮止まりでどうかなと思いましたが、思いの他釣れて(32尾)ホクホクでした。いざダンベー(方言か否か適当な漢字が思いつきません)に容れようと蓋を開けた処、大物が3尾絶命(もったいない)、一昨日来の雨で波止内が濁っている(雨水が波止内に籠って塩分濃度が希薄に??)事,一寸欲張り過ぎて貯め過ぎた事等でしょうか。早速女房殿に送(クール便)りました。一寸大き目の箱(発泡スチロール)しかなく間を埋めるべきサザエを入れての事、思わぬ出費です。
2月17日が父の命日(数え33歳)です。顔を見た記憶(左に掲載した他数枚の写真で知るのみ)はありません。第5師団歩兵第42連隊に所属してた伍長(戦死すれば昇級するので現役の事は知りません)でボルネオ島で戦病死(多分マラリアであったろうと思います。すでに野戦病院をなさずましてや内地に送り返す余力もなかったか)しました。徴兵後兵役を終え、呉工廠で働いていた等の資料(潜水士等の免許証が残っています)はあります。再度の徴兵で南方方面に派兵の途中船舶が撃沈ボルネオ島に上陸後再編成の連隊(多分混成であったと思えわれます)ででのことです。不思議な事に、内入に遺骨(何処の石ともしれない石のみ:後日談)を迎えに行った記憶(3歳弱の頃)だけは鮮明に残っています。
昨日、叔母の法要が営まれ親戚が久し振りに集いました。幼少の頃は出稼ぎも少なく、親戚の者にしかられ育てられましたが、最近では、顔をあわせるのが盆正月と法要時のみといっても過言ではありません。それも短時間、法要が済めば甥姪もすぐさま帰宅します。身寄りはあるものの全てが遠方、遠くの親戚兄弟よりも近くの他人とは良く言ったものです。
次男が短い盆休み(自前で歯科技巧を経営:従業員自分1人)を利用して15日に夫婦と初孫で帰省しました。大阪に行った時3回会いました(一回目は生誕2ヶ月)がなついてくれませんでした。今回(二歳半)初めて抱っこしました。農協で頂いた金魚のショルダーが気に入ったようで、魚と一緒で餌が大事見事に的中しました。今まで投稿しなかったのは、抱っこした温もりを離したくなかった為です。爺馬鹿ですね。
夏休み程ではありませんが、連休で多くの帰省がありました。中学生以下のお子さん連れが多く(孫のいる私の年代になると帰省がすくなくなります。親が逝去して帰省しても兄弟の家でお世話になる為でしょうか)顔見知りを見る事が少なくなりました。知ってるかも知れないが、顔立ちが余りにも変り気づかないのが本当でしょう。それでも子供の賑やかな話し声が毎日聞こえると子供の頃の貧しくても賑やかな田舎が目に浮かびます。
義叔父1人を残して叔父叔母4人(義叔父叔母を含めて7人)全てが世を去りました。寂しい限りです。昨日菩提寺において葬儀が滞りなく行われました。故郷の葬儀は、献花を除いて全て手作り、の男士(おとこし)が祭壇作りと葬儀進行、女士(おなごし)が賄いを受け持ち心のこもった葬儀が行われます。以前は全ての賄いを行っていましたが、最近は仕出しが主流になりました。と言っても温かい料理は手作りで振舞われます。故郷小泊は2軒(神道1軒,宗派はわかりませんが神宮寺1軒:小泊唯一の士族と言われています)を除いて全てが正覚寺の門徒です。
唯一の心配と言えば88歳の母の事、最近は足が随分弱くなり杖が必要になりました。それでも気丈夫で、料理(油料理はさせません)や野菜の植え付けもします。長生きをして欲しいものです。