フルール・ダンテルディ

管理人の日常から萌えまで、風の吹くまま気の向くまま

人生の最期を考える

2020年04月13日 | 日々寄る年波
 私の母親は介護サービス付き高齢者住宅に入居しているのだが、最後に会ったのは去年の12月、夫が両親に年末年始の挨拶をしないとだめだ、というので、混雑を避けて12月の初めに名古屋へ行った。母はその時は、人としゃべらないので小さなかすれ声にはなっていたし、話も全部は通じていなかったが、にこにことしてほとんど仏様のようだった。
 3月、新婚旅行から帰って、そろそろ一度私一人で実家に行くか(と言うより母親に会いに)と思ったが、コロナウィルスで老人が重症化するから、と介護施設が家族でも面会禁止になっているという話を耳にしたので、母の施設にも電話をしてみると、やはり面会できないとのことだった。なので、母が私たちの家に来たがっていたから春になったら迎えに行く約束をしていたので、それまで待つか、と思っていた。
 しかし、週末に姉から電話が来て、母が口からの食事が難しくなり、胃ろうにするか点滴にするか、それともこのまま最期まで行くかの選択を迫られているという。私個人は母本人の意思を確認したいが、施設の話では、はい・いいえ、右・左くらいの意思表示はできるが、難しい話は無理だという。姉も「そんな状態の母に、自分が死ぬことを悟らせるような話をする方が酷じゃないのか」という考え。私たちはずっと母親に会っていないので、今そういう状態かは本当はわからない。施設側はそういうけれど、家族に対しては違った様子を見せるかもしれないじゃないか・・・。
 そう思って、姉に母の意思を確認したいので面会したいと依頼してみてくれと頼んだのだが、それもNOだった。建物に入ってすぐの集会室で職員と話をするのがせいぜいで、居住エリアには入れてもらえない。
 確かに、体力的に弱った人が大勢いる老人施設で感染が起きたら、確実に死亡者が出るし、責任問題となってしまう。私は、どれほど気を付けていたところで完璧に防ぐことなど不可能と思っているから、もし親が感染して死亡することになっても責任を追及する気はないが、そうでない人は世の中に大勢いるから、神経質になっていることは理解できる。しかし、人生の最期を、本人も家族も納得できないまま決断させるというのはあまりにも杓子定規すぎやしないか・・・と思うことも確かだ。
 胃ろうにするとしても、造設可能かの検査入院がまず必要。胃下垂の人は造設が難しいというので、母には難しいかもしれない。入院で一気に症状が悪化する恐れもある。点滴は介護療養病院への移動が必要。テレビ電話を繋いでもらえたとしても、面会の代わりとしていざとなったら使えるかもしれないが、画面越しで難しい話が通じるのか、職員さんが同席する場面で、母が正直な気持ちを出してくれるかどうかも疑問だ・・・。
 姉と私自身は、胃ろうより最期まで口から食べてほしい、脱水症状が出たら病院で点滴治療するのはやむを得ない、という考えなので、母の意思を確認できないのが本当に心残りだし、後悔は絶対するだろうなと思うが、施設側にはその旨を伝えることにした。
 施設側は、「容態が急変したら救急車を呼ぶ。その場合はもしかしたら家族が駆けつける時間があるかもしれない。が、朝起きたら、気が付いたらすでに・・・という場合はその時間はないことを承知しておいてくれ」という話だった。そのために今のうちに最後に会っておきたいと思うが、それもできない。私はどうしたって死に目に会えそうにない。
 今、全世界で、こんな風にもうすぐ亡くなることがわかっているのに家族に会えない人がたくさんいるんだろうなと思うと、本当にやるせない。本当に、コロナウィルスの流行さえなければ、母も私たちも違った最期を迎えられたのだろうに、こんな別れを迎えるなんて、想像もしていなかった。母に申し訳ないと思うばかりだ。