熊野醉軍

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2010年7月17日 播磨、但馬、丹後、丹波 3 播磨國一之宮伊和社

2010-07-17 23:00:03 | 近畿(兵庫)
 暗いうちに道の駅「播磨いちのみや」に到着したので、そこで夜明けを待つことに。駐車場に立って、ふと境内のほうを見ると、森の上に巨大な古代装束の男が坐していた。エネルギー體を映像化したものが脳内に入ってきたのだ、と思うが、かなり強大な印象があり、触れることは憚られる様な感を持った。さらに鳥居脇の參道の杉で、境内入り口の左右に立つものには、向かって右に男、左に女が立っているのが見えた。夫婦であろうか。夜が明けてから境内に入ると、もうその姿は消えていた。

 今回は前回のミスを踏まえ、三脚を持參で境内を撮影。美しい仕上がりと思う。ちなみに、今まで行った兵庫県下の社の中では、圧倒的に一番と思っている。

1.注連繩鳥居と杉竝木



2.參道、橋、二の鳥居




3.隨門



4.拜殿




5.向拜



6.幣殿

 
 

7.本殿




8.鶴石




・境内の説明によると、「昔、大、伊和恒に託宣あり。驚きて見るに一夜のうちに杉桧生い茂りて聖地を成し、空に鶴群れ舞い、その中大き二羽北向きて眠り居たり。その跡に殿を造り、奉齋せり。これ當社の起源なりと傳う。鶴の居た石を鶴石または降臨石という。」とのこと。

9.舞臺



10.末社播磨十六郡社
(東八郡)

(西八郡)


11.末社五柱社



・祭は天照皇大、國底立大、宇賀魂大、猿田彦大、佐之男命大。

12.御靈殿

 

・祭は伊和恒命。

13.それがし

 

★播磨國一之宮伊和社★ 兵庫県宍粟市一宮町須行名407

・延喜式内社、播磨國宍粟郡、伊和坐大名持御魂社、名大。
・舊社格は國幣中社。
・祭は大己貴。少彦名、下照姫を配祀。
・『延喜式』名帳が當社の社として、公的文献に見える最初と思われる。
・古くから山隂、山陽を結ぶ交通の要所に位置しており、また、繩文時代からの遺跡も少なくないという。
・伊和社は神域すべてが森林そのもので、『播州宍粟郡手鑑』には「境内宮林、縦八十六、横百二十八、造立之節與里林也」と記されており、當社は元元あった天然の樹林のなかに創祀された事が推測される。
・森の總面積は實に一六〇九八坪(五三二一八平方メートル)で、樹種も多い。
・鎭座する一宮町とその周辺地域からは繩文式土器が発掘されており、彌生時代には人口も増大し、村落共同體を形成し、有力な支配者も存在していたようで、當社のすぐ西方にある閏賀の山腹から銅鐸が出土している。
・『播磨國風土記』において、伊和大は、餝磨郡、揖保郡、宍禾郡、前郡と、揖保川流域を中心に足跡を及ぼし、特に「國を占めた時」を意味する「占國之時」という表現が見られ、その支配權の確立を示している。
・伊和大と系譜的な繫がりを持つは多く、『播磨國風土記』によると、許乃花奈佐久夜比賣とのに生まれた御子として、阿賀比古命、阿賀比賣命(餝磨郡英賀里)、伊勢津比古命、伊勢津比賣命(揖保郡伊勢野)、石龍比古命、石龍比賣命(揖保郡美奈志川)、玉足日子、玉足比賣、大石(讃容郡雲濃里)、建石敷命(前郡)が見えるほか、『峰相記』が宍粟郡與位村の與位明、己勝明、安志の安志姫大明、皆木の若邇志明、能倉村の庭田明、須賀村の一宮遙拜所などをいずれも「皆これ眷属の部類なり」とし、伊和大の支配圏の厚さを傍証するに値すると考えられる。
・祭祀氏族は伊和君一族とされるが、記紀などの古代文献にはまったく登場せず、詳らかではない。
・創祀年代不詳。社傳によると、成務天皇甲申年(144)もしくは欽明天皇二十五年(564)に、大の託宣により、伊和恒がこの地に社殿を造営したという。このとき、二羽の白鶴が北に向いて眠っていたので北向きに社殿を建てたといい、本殿裏に靈石鶴石が今も殘る。
・中世、播磨國守護赤松氏の崇敬と庇護を得た。
・荘園時代には惡党に苦しめられることも多く、文永十年(1273)、六月会供養の前提として河水の汚濁を嚴禁したところ、野口保の荘官が反抗し、官に狼藉し、また文保二年(1318)、染河内荘の田十町歩の年貢が抑留の厄に遇うなど、威は衰退の兆しを見せている。
・建武中興前後、新田義貞は足利尊氏西走を追い、播磨に至り、赤穗郡の白旗城で赤松則村と対陣した時、揖保郡の廣山で「播磨大介」の名をもって伊和社に對する「濫妨狼藉禁止」制札を下し、さらに延元元年(1336)卯月二日には戰勝を祈願したという。
・延元元年(1336)、全燒し、明の乱(1391)の後、赤松義則が再建した。
・荒木良雄氏は、「伊和部族が、その祖大名持の御魂を祭るのに際して、その祖國である方向をなつかしみ選んだのではなかろうか」と北向社殿に關して述べ、安永二年(1773)の境内図に見える本殿の建築様式を取り上げ、切妻造、妻入正面、千木の間に堅魚木を三組配列という杵築大社様式の踏襲を重視し、出雲部族の進出の證拠としている。創祀以來その様式を續けてきたとされるが、何らかの事情で、現在は檜皮葺、入母屋造である。
・社を囲む伊和三山(鼻先山、白倉山、高畑山)の頂上には磐座が立つという。

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(足跡)
播磨國一之宮伊和社 → 御形社 → 小和田不動瀧 → 子畑鑄鉄橋 → 足鹿社 → 竹田城跡 → 八幡社 → 當勝社 → 但馬國一之宮粟鹿社 → 宇社 → 清龍瀧 → 出石蕎麦 甚兵衛 → 天滿宮 → 岩鼻稻荷社 → 經王寺 → 石部社 → 吉祥寺 → 諸杉社 → 出石城跡 → 但馬國一之宮出石社 → 小蟲社 → 大蟲社 → 鬼嶽稻荷社 → 天の岩戸社 → 皇大社 → 豐受大社 → らーめん 一こく

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