產田ノ眞名井戶ノ神ノ末裔ヨリ

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2010年7月17日 播磨、但馬、丹後、丹波 23 但馬國一之宮出石社

2010-07-17 23:00:23 | 近畿(兵庫)
 二度目の訪問。やはり、特別な何かを感じない。個人的には、やはり、天日槍廟所的な社であるので、國津系の畏怖に繋がる系統の社であるようには感じられない。この地で榮えた一族の祖を祀る宮であり、その勢力こそが一之宮たるべく背景となったのではないか。

1.鳥居、社號標



2.參道



3.石鳥居



4.門



5.拜殿




6.中門



7.本殿



8.井



9.末社市杵島比賣社



10.社務所



11.社叢



★但馬國一之宮出石社★ 兵庫県豊岡市出石町宮内99

・延喜式内社、但馬國出石郡、伊豆志坐神社八座、竝名大。
・舊社格は國幣中社。
・祭は出石八前大、天日槍命。出石八前大とは、天日槍命が將來したという八種寶をいう。八種寶は、『古事記』によると、珠二貫、振浪比禮、切浪比禮、振風比禮、切風比禮、興津鏡、邊津鏡。『日本書紀』本文は羽太玉一個、足玉一個、鵜鹿鹿赤石玉一個、出石小刀一口、出石桙一枝、日鏡一面、熊野籬の七種とし、一に云くとして葉細珠、足玉、鵜鹿鹿赤石珠、出石刀子、出石槍、日鏡、熊野籬、胆狹淺大刀の八種とする。
・『日本書紀』によると、垂仁天皇三年(215)、七種(一説に八種)の寶を携えて渡來した天日槍に、天皇は播磨と淡路にある二村を與えようとしたが、日槍はそれを固辞、自らの意志で永住の地を求めて諸國を遍歴し、但馬に到り、出石の人太耳の娘麻多鳥を娶り、但馬諸助を生み、その子孫は日楢杵、清彦、田道守まで續いたという。
・境内は早くから遺物散布地と知られており、繩文、彌生期の石器、土器をはじめ、新しい時代の遺物も散見される。
・境内前面の平地にはかつて濃密な條里制地割が見られ、また一帶は彌生時代の宮内遺跡、黒田遺跡の所在地でもあり、彌生時代前期の土器片も出土していることから、但馬で最も早い時期に水稻農耕が開始された土地の一つと推測されている。
・本殿東奥にある玉垣に囲まれた方形の地は、「天日槍廟所」と呼ばれ、一木一草たりとも折ってはならない禁足地として大切にされている。
・當社參道は眞西にむかい長く延び、出石川の鳥居橋の袂より大鳥居(二の鳥居)の殘欠が発見されていること、禁足地が現境内の北東に寄っていること、社地の東南方で石敷と大きな堀立柱跡が見つかっていることより、元元は社殿は西面する壯大なものであったことが推測される。
・創祀年代不詳。
・『一宮縁起』という社傳によると、谿羽道命と多遲麻比那良岐命が祖天日槍を祀ったのが始まりという。
・天平九年(737)の『但馬國正税帳』では、朝來郡の粟鹿社の戸祖代六十六束二把に對して當社は四百三十五束六把、調の絁は二百四十四丈五尺に對して二千四十四丈五尺、直稻百六十五束に對して千二百四十五束、戸数二戸に對して十三戸となっており、奈良時代には但馬國最大の社であったことがわかる。
・永正元年(1504)、兵火により社殿がことごとく灰燼に帰し、大永四年(1524)に再建。その後、豐臣秀吉の但馬平定以後には衰微が著しく、江戸期の領主小出大和守吉政が社殿を再建したものの、領地替えにより再び荒廃の道をたどり、江戸時代後期に再興された。

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(足跡)
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