リゾートホテル社長になった(地位保全仮処分申立中)脱原発活動家のブログ           ~街カフェTV/藤島利久~

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利休は武士だった?/千利休の茶室は朝鮮半島の農家と同じ造り ~ 藤島利久公式ブログ

2014年06月18日 | インポート

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【利休と利久】

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  --- 今日のコメント ---

 

昨日、千利休が建てた茶室が朝鮮半島の民家と同じ造りだという話をしたときに、両班と呼ばれる裕福な家と説明しましたが記憶違いでした。後で確認すると、一般民家ということでした。

慎んで訂正いたします。

千利休は、茶人、そもそも実家は納屋衆(倉庫業)で屋号は「魚屋(ととや)」であった。織田信長が堺を直轄所領したときに茶頭に任命されて活躍の場を広げ、本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えた。天正13年(1585年)10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。

最後は、秀吉から切腹をおおせつかった。ならば、身分は武士の扱いということか・・・

察する所、利休が考案したという茶室は密談に使うにぴったりで、作法は暗号ではなかったか?利休の茶室は武器弾薬などの取引に使われた。。。などと、以前から考えていたことをいろいろと語っております。お時間のある方は、上の動画をご覧下さい。

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ウィキぺディア「千利休」には、こんな記述が・・・ やっぱり茶室は密談に使われたようですね。

大友宗麟は大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と耳打ちされた。

和泉国・堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。家業は納屋衆(倉庫業)。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(茶道久田流へ続く)。若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われた。

 

**********

 

(以下、記事転載)

http://blog.goo.ne.jp/geibunkyou/e/4d10dd19a235e7c426bf3041bedf5520

<千利休・茶室の謎>を古本屋で見つけて読む。事実と伝説は違うよう(2009.11.20)


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*左;利休ー茶室の謎;瀬地山澪子著、創元社2000年発行。表紙カバーが茶室の土壁の手触りです。右;こういう特集の雑誌は買ってしまいます。美術手帖、2009年11月号。

  先日、ヨコハマでブラブラしていた時、伊勢崎町の<なぎさ書房>で買ったものの一冊です。
  茶の湯の祖、千利休について、いくつかの番組を作った、NHKのディレクター瀬地山澪子さんの本です。

  わが国の茶道に脈々と伝えられている、千利休の伝説、茶の湯の伝統・心にも抵触するようで、大変面白かったのです。
  日本独自の世界、千利休が到達した<総合美>の世界が、実は、朝鮮(韓国)古来からの生活様式であった、というのです。

ウチの家人は、40年ほど続けている茶の湯好きです。従って、私も、時にお茶を飲みます。旅先では、著名な茶室を訪ね、骨董屋を覗き、お土産に茶の湯目線で和菓子を買います。近年、建築家やアーティストが<現代の茶の湯を展開>しているイベントなんかによく行きます。<例えば、ここにあります>

 

  中国の茶を飲む習慣(喫茶)が、日本に入ってきて、日本独自の茶道(茶の湯)という芸術にまで昇華したといわれています。
  茶を飲む空間=茶室、茶を飲む道具=茶碗、茶を飲む空気=自然観など、茶にまつわる全てが、洗練され、無駄をそぎ落とした芸術だといわれるのです。

  平安貴族風の、荘厳華美に飲んでいたそれまでの茶(主と客が同座することのない殿中や書院における豪華な茶の湯)を、簡素な<侘び茶>にたどり着かせたのが、茶の湯の大成者・千利休です。<侘び>という新しい美意識を作ったのです。

  千利休が作った茶室が、現在ただひとつ残っています。京都府・大山崎の<待庵・たいあん>(国宝)です。

 

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  待庵は、例えば、<二畳敷きの極小空間に込められた、深遠な思想>、<主と客のみが対峙し得る二畳敷きにまで空間を狭めたのです>などと解説されます。

待庵の特徴を乱暴にいえば、
   ①二畳敷きという極小空間
   ②土壁でかこった部屋で柱を見せない(それまでの、木の部屋から土の部屋に)
   ③入り口が、にじり口(立って入れない高さ)
です。

  これらの特徴を持った、居住空間は、朝鮮古来からの民家であるというのです。
  それを<発見>し、発表したのが、本書の著者、NHK大阪、京都にいた瀬地山澪子さんです。
  瀬地山さんは、そのことを、NHK総合テレビ「歴史誕生」で、「利休茶室の謎―天下一宗匠の切腹」という番組にしたのです。放映は、1989年11月24日でした。

そっくりな朝鮮民家を見つけます。土壁の狭いウチなんて、どこにもあった朝鮮の貧しい民のウチそのものなのです。土壁も、出入り口の小ささも、皆、寒い朝鮮ならでは工夫なのです。
  瀬地山さんは、そのことを丁寧に説明しています。

  もうひとつ。茶会には、2種の茶室が使われます。広間と小間(こま)です。大勢が座ることできる広間と、少人数が座れる小間です。この小間(こま)は、高麗「こうらい=こま」からきているというのです。神社の高麗犬=こま犬と同じです。文献に、狭く作った茶室が<こまがこい=高麗がこい>とあることを見つけます。小間は、高麗(高麗風な部屋=小さい部屋)なのです。

日本オリジナルな、茶道空間、茶道世界は、朝鮮文化からも大きく影響されているようです。千利休が、どのように、具体的に朝鮮文化(朝鮮民俗)の影響を受けたのかも考察されています。

読み進む中に、秀吉の朝鮮征圧の野望にあたりました。
  文禄慶長の役は、利休切腹後一年たった、1592年4月に始まり、1598年、秀吉の死によって終結するまで、足掛け7年に及んだのです。

  <その間、女性を含む数万の朝鮮の人々を拉致連行し、多くの文物を略奪した。連行された人々による文化の伝搬・創造・略奪物の効用などは想像以上の多岐にわたり、日本近世文化の形成に大きな意味を持つに至った(瀬地山澪子さん)>

 


*瀬地山澪子さんは、1937年;生まれ、1960年;NHK大阪放送局に入局、1997年;定年退職、1999年;病室で最後まで著作の執筆に意欲を燃やすが、享年62歳で逝去。

 

 

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