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恐怖の9番打者(辻発彦)

2009-09-23 09:38:51 | 他スポーツ
かつて、パリーグの9番打者というと、守備専門の選手が座るのが常でした。確かにセリーグの投手に比べると、野手が9番に座ることで多少は打線の破壊力は増しますが、9番打者をうまく活用したチームは少なかったです。そんな常識を破り、9番打者こそ重要という意識を植え付けたのは、西武黄金時代の監督、森監督でした。

1986年-1988年の3連覇当時、9番に座っていたのは、いつでも1番を打てるタイプの辻発彦選手でした。辻は、野球では無名の佐賀東高校の出身で、その後は社会人野球の名門、日本通運にテストを受けて入社します。日本通運では4番打者だった辻ですが、25歳でプロ入りするとき、「自分の打力ではプロには通用しない」と判断しました。

そのため、辻はプロ入りしてからは、自分の打法を「小さくする」ことで、しぶとくレフト前に落とすヒットを狙う打撃に切り替えました。バットを短く持った、独特の打法も、プロ入り以降です。この判断は正解でした。もともと最初から1,2番タイプを狙っていた辻にとって、9番に座って1番石毛とのつながりを生かすという役割は合っていました。

当時の西武の場合、9番から始まる打順も「好打順」と呼ばれたほどです。それは、石毛が意外と犠打(送りバント)の数が多いことにも現れています。一見、常に3割をキープできる石毛は、森監督が最も頼りにした打者のように思えますが、実際はバントなどでチームバッティングをすることも多かったです。

ただ、1989年に優勝を逃した後の第二期黄金時代(1990年-1994年)には、辻は本来の1番打者に座りました。平野という2番向きの打者の加入と、石毛が6番に回ったからです。ただ、この新打線の威力は抜群でした。加入したデストラーデが左右両打席でホームランを打ち、その前はいつものAK砲(秋山、清原)が座る、ドラフト以降では最強のチームとたとえられました。

ただ、そんな西武の終焉は、FA制度の導入でした。秋山もFAができたら止められないと判断され、当時のダイエーにトレードされ、工藤、石毛らもFAで去り、辻も年俸が2億円と高騰していた理由もあり、西武を戦力外になりヤクルトに移籍します。ヤクルトで首位打者を取って意地を見せましたが、それが最後の輝きになりました。しかし、西武の黄金時代の名脇役だった辻の活躍は、今でも忘れません。

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2010-02-06 12:47:52
辻はヤクルトでは首位打者になれませんでしたよ。パウエルに7厘足りず2位におわりましたので念のため。

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