デジカメぶらりぶらり

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参謀本部

2007-09-10 08:43:33 | Weblog
「ヒノデ」は「ヤマガタ」とす。1941(昭和16)年12月2日、大本営から南方軍総司令官あてに一通の電報が発信された。

ヒノデは作戦開始日、ヤマガタは「8日」を意味する暗号。マレー半島侵攻の指令である。真珠湾奇襲攻撃と並ぶ緒戦の両輪。

それは太平洋戦争が始まることを意味した。この電文を起案したのは、当時、陸軍参謀本部の参謀だった瀬島龍三氏。

新しい筆とすずりを使ったという。「緊張して手が震えた」と書き残している。(回想録「幾山河」)、その瀬島氏が先日、95歳で他界した。

陸軍大学校を首席で出て陸軍中枢の参謀本部作戦課に勤務した超エリート。対米英戦では、作戦主任を勤めた。

戦後は、シベリアに11年間抑留されるが、帰還後、伊藤忠商事で会長まで出世の階段を駆け上がる。

土光臨調では委員を務め電電公社や国鉄の民営化に腕を振るった。ついには「歴代首相の指南役」と呼ばれる存在にまでなりおおせた。

まるで日本の戦中戦後史が背広を着たような・・・。良くも悪くもそう評すにふさわしい人物が、永遠の沈黙の中へと消えた。


三度目

2007-09-08 08:02:45 | Weblog
「二度あることは三度ある」と、ことわざにある。悪いことが重なった時に、三度目がないように注意を怠ってはいけないという意味である。

確かに同じような出来事が続くときは偶然でなく、根本的な原因があると思って対応した方がいいのだろう。

安倍改造内閣では、政治とカネの問題がないことが、入閣の条件だった。特に農相は二代続けて国民の信用を失い、一人は自殺し、もう一人は更迭されている。

当然のごとく、改造の焦点になった、指名されたのは農政通の遠藤武彦氏。ところが就任時に「ここだけは来ない方がよかった・・・」と話している。

いま思えば正しい発言だった。農相がトップの農業共済組合が、加入者を水増しする手口で国から115万円の補助金を不正に受け取っていたことが判明した。

農相は3年以上前に事実を知り、「大変大きな由々しき問題と感じた」と振り返っている。その認識も正しと思うが、トップを退くでもなく、不正受給分を変換するでもなく、月日が過ぎている。

この鈍感さは一体何なのだろう。農相は農水副大臣も経験している。本音では国からの補助金、要は税金を自分のカネのように思っているのでは、と勘ぐりたくもなる。

不眠症

2007-09-06 06:49:37 | Weblog
「不眠症」という前代未聞の理由で本場所を休場。ところが直後、ハワイはワイキキの浜辺で美女とくつろぐ姿が写真付きで日本に伝えられた・・・。

横綱北の富士(現在は相撲解説者)、昭和47年の逸話。帰国して記者団に語った、横綱の言葉が「痛快だった」という。

「東京で入院生活送るより、ハワイの浜辺を走ったり波乗りした方が再起できますよ」。モンゴルとハワイ、サッカーと美女は違うけれど、朝青龍のケースとどこか重なる話である。

もっともこちらは痛快とは正反対のこじれ方。本人は、不眠症どころか「解離性障害」なる心の病と診断され、ついに、先日帰国した。

北の富士が、病に倒れたライバルの横綱玉の海の巡業先にかけつけ、自分の雲竜型でなく玉の海の不知火型で土俵入りをやってのけたエピソードがある。「男の中の男」とたたえる。

やがて玉の海、死去。北の富士は人目かまわず泣いたという。横綱としての器量あらばこそ、不祥事さえ時に、「痛快」で収まり得る。

残念だが、朝青龍にそれがあったとは言えない。今回の騒ぎでも、むくれずにせめて自分の口でファンや相撲協会にひと言、釈明なりしていれば、ここまでもめてはいまい。


ピンチ

2007-09-04 09:15:24 | Weblog
神様は決して、ピンチだけをお与えにならない、ピンチの裏側に必ず、ピンチと同じ大きさのチャンスを、用意して下さっている。

福岡県飯塚市に住む詩人山本良樹さんの詩「ピンチの裏側」の冒頭に一節である。夏の甲子園大会で初優勝した佐賀北高校(佐賀市)野球部の部屋の外には、詩の全文を書き写した看板か掲がられている。

8年前に一人の選手が感銘を受け、今ではみんなの心の支えになっているという。佐賀北の初優勝までの道のりを見ると、納得できる。

決勝戦では8回裏に4点差を満塁本塁打などで逆転した。選手たちは苦しい試合ほど「あきらめてはいけない」と自分に言い聞かせ、チャンスを待っていたと話している。

「ぐちをこぼしたりやけを起こすと、チャンスを見つける目がくもり、ピンチを切り抜けるエネルギーさえ、失せてしまう」「ピンチ裏側」にはこんな一節もある。

人は、心の支えとなる言葉を必要としている。

寺子屋

2007-09-02 08:09:39 | Weblog
夏休みも残り少なくなってきた。あせっている子もいそう。その昔寺子屋で学ぶ子も結構大変だった。

毎月、6回ほど清書があった。つまり習字のテスト。お師匠さんの前で手本の文字と日時署名を記す。

寺子屋の師匠さんは武士、僧侶、神宮、町人など。人格者が多かったという。習字が中心だったから個別学習である。

書は○やーの数で評価されたり“大極上々告”などと感想を書き込まれることもあった。寺子屋は地域社会に応じた教育をした。

手習い(習字)のほか算盤(そろばん)、漢字、礼儀作法から謡曲まで教えるところもあった。

それだけ心得ていれば世渡りができた。現代でも教養人として十分通用しそうである。

2007-09-01 07:26:08 | Weblog
もう暑さは言うまい。ただこの季節、大気の状態が不安定という天予報を聞く。こうなると警戒すべきは雷である。

ほとんどの落雷事故には予兆がある。嫌な予感がしたらためらわず避難すべきだろう。1987(昭和62)年8月5日早朝、高知県のサーフィンの名所で悲惨な落雷事故が起きた。

死亡者6人、重軽傷は6人、事故直前、あたりは暗くなり雷雨になった。同じ年の8月14日には東京のテニスコートでプレー中のなんとラケットに落雷し2人が大けがをした。

これまた大雨洪水注意報が出ているときだった。雷は相手を選ばない。こちらから用心するしかない。