朝刊を開いたら、とりあえず死亡欄はチェックしてしまう、という
哀しい習慣が出来ております。
故田中角栄元首相は「新聞で真実が書いてあるのは死亡欄だけだ」と
言ったとか。そう思うと余計に気になります。
縁などあろうはずのない全国ニュースの面であろうとも・・・。
ついでに、最下段の死亡とか葬儀を告げる広告も見てしまいます。
出席する予定など万に一つもないのですが。
最近目についたのは日清食品の故安藤百福氏の社葬で
葬儀委員長が中曽根康弘氏だったこと。
「へぇ~」ボタンが頭の中で鳴り響いてしまいました。
思わぬところに人脈が垣間見えたりします。
ところが、今朝の朝刊には一風変わった死亡広告が。
どうも、一般の方のようなのですが、
生前の本人の希望により、葬儀も告別式も開かなかった家族が
これまた本人の希望により、死亡広告を新聞に載せたもの。
それが、遺族からの挨拶のあとに、
亡くなったご本人からの知人にあてた手紙が掲載されたものでした。
「今まで無宗教でいたのに、今更宗教儀礼は受けたくない。」とした上で、
自分の人生に関わった人たちへの感謝の言葉が述べられていました。
そして、香奠等は固く辞退するけれども、どうしても、という方は
遺族に自分(亡くなった本人)を偲ぶよすがになるような手紙でも
書いてやって欲しい・・・・というような内容でした。
自分の人生、死の瞬間どころか死後までプロデュースしてしまったこの人に
なんとも天晴れ、と感じてしまいました。
きっと充実した人生だったのでしょう。
自分の葬儀を自分でプロデュースしたり、計画したりする人は
確実に増えてきているようです。
それはそれで「よく生ききる」ために一つの方法かも知れません。
また、そうは言っても、自分の死後まで自分の思い通りにしたい、
というのは、ちょっと人間の思い上がりではないのか?という思いもします。
死んだらどうなる、なんてホントのところは誰にもわからないのですから。
昔々から連綿と続いてきた葬送儀礼にはいろいろわずらわしいしきたりも
あるけれど、「しきたりに振り回されることで、遺族が悲しむ時間を減らす
(=気がまぎれる)」という機能もあると聞いた事があります。
学術的根拠があるわけではないけれど。
それぞれに、賛否両論あるけれど、
「どう死にたいか?を考えることはどう生きるか?」を考えること、
というのは間違いないかもしれません。