内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

人文科学における「比類なき」金字塔 ― ジョルジュ・ギュスドルフを讃えて

2014-03-01 00:01:00 | 哲学

 昨日紹介した Georges Gusdorf (1912-2000) の二部作 Lignes de vie 1 : Les écritures du moiLignes de vie 2 : auto-bio-graphie (Odile Jacob, 1991) は、実に創見に富んでおり、しかも大変読みやすいフランス語で書かれている。議論に大味なところや緻密さに欠けるところがあり、引用されたテキストの迫力に依存して論理的には飛躍しているところもあるのは否めないし、繰り返しが多い等の欠点を指摘することも難しくない。しかし、とにかく読ませる文章が書ける稀有な大学者である。
 ところが、フランスでさえ、一般の読者によく知られている著作家だとは言えない。どちらかと言えば、「忘れられた」思想家の一人である。ましてや、流行とヒーローとスターとアイドルしか追いかけないことに決めているらしい日本(特に、いわゆる「フランス現代思想」贔屓筋にはこの傾向が著しいように私には思われる)では、当然のことながら、よく知られていない、あるいは無視されている。六十年代末から八十年代半ばにかけて大学論、教育者論、神話論等五冊ほど邦訳されているが、特に注目を集めたこともなかったようである。
 1940年から1945年までドイツの何ヶ所かの捕虜収容所で過ごしているが、その日常性から断絶された恒常的な監視下の無為の生活の中で、自己の存在理由についての哲学的思索を深める。戦後、高等師範学校で助教を三年間務めた後、ストラスブール大学准教授に任命され、一般哲学と論理学を担当する。いわゆる「六八年革命」を基準にして見れば、ギュスドルフは「旧体制側」に属する。フランスの伝統的高等教育の正嫡に属する彼にしてみれば狂気の沙汰としか思えない六八年の学生たち及びそれに同調した大学教師たちの既存の学問的権威に対する十把一絡げの短絡的な否定と破壊に腹を立て、その「革命」のほとぼりが覚めるまでカナダ ・ケベック州のラヴァル大学に避難していた。フランスに戻ってからは一九七四年の定年までストラスブール大学教授として教壇に立つ。しかし、そういった表層のレッテルに依存した根拠薄弱な序列化が歴史的に瑣末な意味しか持たなくなることは、今後の歴史が証明してくれるであろう。「六八年革命」から半世紀近く経った今、五十年後にも残る業績はどれかという問いに対して、六八年の時点で体制側だったか反体制側だったかということは、今後次第にほとんど意味をなさなくなるであろう。ギュスドルフが六八年以降のフランス大学教育の荒廃について、当時あるいはすでにその数年前に予言的に述べていた見解は、今日の大学教育の惨状そのものがその妥当性と先見性を証明して余りあることを現場にいる者の一人として私は証言する。
 この記念碑的大著に限ったことではないが、その博覧強記はまさに圧倒的であり、私などはそれにただ呆然とすることができるだけである。特に、十三巻(十四冊)からなる Les sciences humaines et la pensée occidentale(『人文諸科学と西洋思想』、一九六六-一九八八年)は、まさに西洋思想史研究の分野に屹立する壮麗なカテドラルのごとき業績で、これが一人の人間によって成されたということが信じられないほどである。古代から現代まで人文諸科学の範疇に属する諸文献をそれこそ縦横無尽に引用しながら、壮大な思想絵巻を展開しつつ、繰り返し人文諸科学の根本問題を問い直すその手際は他の追随を許さない。ギュスドルフの業績がしばしば « inégalé »(並ぶものなき、比類なき)と評される所以である。特に、『人文諸科学と西洋思想』第九巻から第十二巻に相当するそのロマン主義研究 Le romantisme I : La savoir romantiqueLe romantisme II : L’homme et la nature (Édition Payot & Rivages, 1993) は哲学史・思想史の分野に限らず、文学研究者にとっても古典的必読文献の一つである。私も両書には一方ならぬお世話になっており、特に前者は何度も紐解いているうちにとうとう背表紙が割れてバラバラになってしまい、それを製本屋に頼み込んで修復してもらったほど愛着のある本である。
 ギュスドルフの批判の刃の切れ味は鋭い。誤っていると見なす見解に対しては、その相手が権威だろうが大家だろうが容赦せず、バッサリと切り捨てる。その切り捨て方は、読んでいて痛快なことが多いが、ときには「そこまで言っていいんかい」と目を丸くしてしまうことさえある。
 明日の記事では、そのような批判の一例として、Les écritures du moi の第三章冒頭で、フランス文学における自伝研究の権威である Philippe Lejeune の « autobiographie » の定義を批判している箇所を引用して、コメントを加える。そして、それを手掛かりとして、「自伝」とは何かという問いが文学の一ジャンルの定義という問題を超えて、〈自己〉とは何かという根本的な哲学的問いへの正統的なアプローチの一つでありうることを示す。