内的自己対話-川の畔のささめごと

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一九二四年マールブルクでの三木清とカール・レーヴィットの邂逅 ― 二十世紀前半の哲学史の一齣再訪

2018-05-12 23:00:39 | 哲学

 三木清とカール・レーヴィットとは、どちらも一八九七年生まれである。誕生日は、三木が一月五日、レーヴィットが一月九日。わずか四日ちがいである。
 この二人が初めて出逢ったのは、一九二四年マールブルクでのことである。前年の一九二三年、ゲッティンゲンからマールブルクに転任したハイデガーに師事すべく、三木は最初の留学地であるハイデルベルクからマールブルクに居を移す。その翌年一九二四年、ハイデガーの最初の高弟の一人であったレーヴィットがミュンヘンからマールブルクに師のあとを追って移ってくる。
 三木は、マールブルクに落ち着くと、すぐにハイデガーを訪ねている。そのときのことは、『読書と人生』に収められた「ハイデッゲル教授の想い出」に印象深く描かれている。
 同じく『読書と人生』に収められた名編「読書遍歴」の中で、三木は、ハイデガーの紹介でレーヴィットからフッサールの『論理学研究』の講釈をしてもらうことになったと記している。
 イタリア語の原著 Una sobria inquietudine(Giangiacomo Feltrinelli Editore, Milan, Italie)が二〇〇四年、その仏訳 Karl Löwith et la philosophie. Une sobre inquiétude(Editions Payot & Rivages) が二〇一三年に出版された Enrico Donaggio によるレーヴィットの知的伝記の中には « Sensei Löwith » と題された節(仏訳で十頁ほど)がある(折角「センセイ」という日本語を使うなら、語順を逆にしてほしかったが)。
 その節には、レーヴィットが日本の若き哲学者たちと一九二〇年代前半にマールブルクで出逢った経緯、そして、その十年余り後の一九三六年に、やはりかつてマールブルクで面識があり、当時京都帝国大学教授だった九鬼周造の尽力によって、ファシズムと反ユダヤ主義が席巻するヨーロッパを逃れ、レーヴィットが東北大学に哲学教授として赴任することになった経緯などが略述されている。
 ただ、三木とレーヴィットとの出逢いに関しては、著者の Enrico Donaggio は、おそらく自身で日本語の文献を読むだけの能力がないのであろう、三木の「読書遍歴」さえ参照していない。それどころか、日本人名の姓名の区別も覚束ないようで、索引では、西田、九鬼、三木については、彼らの名と姓が逆さになっている(つまり、それぞれ、KITARÔ、SHÛZÔ、KIYOSHIが名字になってしまっている)。巻末の謝辞には、十名近い日本人(その大半はご高名な方々である)も挙げられているのだが。もちろん、こんな些末なことは、西洋の哲学者の知的伝記にとっては「瑕瑾」に過ぎない。
 レーヴィットの人と思想については、岩波文庫から二〇〇八年に刊行された『共同存在の現象学』巻末の訳者熊野純彦(彼の名前も上掲書の謝辞に見える)による懇切丁寧な解説によってその概略を知ることができる。しかし、その中には、三木とレーヴィットとの出逢いのことは一言も触れられていない。もちろん、こんな些細な欠落も、レーヴィットの著書の解説として、なんら非難に値することではない。
 これらのことは措き、私がここで言いたいことは、一九二四年にハイデガーを介してマールブルクで邂逅した三木とレーヴィットという同年生まれの哲学者それぞれの哲学と命運を交叉させるようにして読むことによって、二十世紀前半の哲学史について一つの新しい読み筋を浮かび上がらせることができるだろう、ということである。
 ここ十年ほど、欧米では、日本の哲学を研究テーマとする若手研究者が目に見えて増えている。誠に慶賀のいたりである。しかし、日本語の原典もろくに読めないくせに日本の哲学者について喋々と語る安易さがまだ目立つ。そのような輩が得意気に語る浮ついた「概念的」比較など、正直、聞くに耐えない。
 文献学的手続きをしっかり踏まえ、第一次資料で史実を裏付けるという地道な作業を厭わず、おのれ自身を「歴史に書き込む」主体的な方法論を身につけた本格的な研究の登場を期待せずにはいられない。












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